秀吉子飼いの家臣で岸和田城主の中村一氏は今年三十五歳。尾張の出身とも、近江の多喜氏の一族ともいわれるが、素性はよくわからない。長浜城主時代の秀吉に二百石で仕えたのが、記録に名前が残る最初である。
信長が石山本願寺を攻めた天正四年(一五七六)の天王寺の陣で、一氏は堀尾帯刀吉晴らとともに一向宗徒を相手に奮戦し功名をあげた。
天正九年(一五八一)六月の鳥取城の戦い、同十一年(一五八三)の三重長島城の戦いでも一氏は大いに活躍し、秀吉の信頼を得た。
後に近江水口六万石の領主や駿府の城主を経て、堀尾吉晴、浅野長政らとともに豊臣政権下での三中老にまで、のし上がった。三中老は五大老、五奉行につぐ要職である。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは家康方についたが、その年に病死した。
天正十一年二月、柴田勝家との戦いで近江に出陣していた秀吉は、大坂城に寺田又右衛門、松浦安太夫ら和泉の地侍を集め、向後は岸和田城主中村一氏の指揮に従うよう命じた。
秀吉は、和泉の知行をめぐって、いずれは根来と戦わねばならないことを自覚していた。
明智光秀を倒した後、ようやく天下統一を意識した秀吉にとって、百姓が頼る寺社勢力は大きな障害となる。寺社の制圧は天下取りの前提だった。
秀吉は和泉で没収した寺社領を一氏に与えた。かつては細川、三好氏に臣従していた和泉の地侍たちは皆、秀吉の威勢を恐れて一氏に従った。
当時、根来寺の勢力は南の紀の川流域から泉州南部を経て、北は春木川(岸和田市)に至る泉州北部との境まで及んでいた。
根来にとって、泉北との境は細川、三好勢にも譲らなかった生命線だった。
それまで秀吉の出方を測りかねていた根来は、一氏の岸和田入城によって、秀吉の和泉侵略の意図を確信した。
根来は秀吉との対決姿勢を強めたが、紀州勢だけで秀吉に敵対するにはなお躊躇があった。
信雄への支援を名分とした家康の呼びかけは、このためらいを払拭した。紀州の諸勢力は秀吉との対決を決断した。
紀州勢が大坂に向かい、大挙北上しているとの報告を岸和田城内で聞き、中村一氏は重い責任が肩にのしかかるのを感じた。
一氏にとって、今度の戦は生涯最大の危機だった。
もし、ここで紀州勢をくい止めることが出来なければ、紀州勢は建設中の大坂城下を破壊するのみならず、その勢いを駆って京都にまでさかのぼり、尾張出陣中の秀吉公の背後を脅かすだろう。
もし、そのようなことになれば、紀州の抑えを命ぜられた自らの役目を果たせないばかりか、膨大な労力と富を費やして造り上げた大坂城も破却され、大恩ある秀吉公自身に危害が及ぶ。
そう考えると、身が引き締まり、冷や汗がにじみ出てくるのを感じた。
《この戦は絶対に負けられぬ。何としてでも紀州勢の北上を食い止めねばならない》
一氏は固く決心した。
しかし、相手は岸和田城にいる味方より、数において優っている。どうすれば敵を押しとどめることが出来るか。一氏は、その答えを出そうとして、苦しんでいた。
秀吉公は自分を信頼してくれている。紀州勢への不安は少しも顔に出さず、《あとは頼むぞ》と言い置いて、上機嫌で尾張表へ行ってしまわれた。
秀吉公は決して信長公のように家臣を畏怖させない。むしろ、黙って任せてくれる御方である。
人は命令されるよりも任された方が、仕事に励むものだ。下積みから成り上がってきた秀吉公は、人を働かせる術を心得ている。
《信頼して大きな役目を与えてくれた秀吉公の期待に応えねばならぬ》
一氏は自分を引き立ててくれた秀吉に強い恩義を感じていた。
紀州勢の進出を食い止めるには、兵力をできるだけ温存し、敵のすきに乗じて弱い部分を集中的に攻撃するしかない。
家臣らと夜を徹して策を練る一氏の額には心労と焦燥の色が濃かった。
◇
秀吉が尾張に向かって出陣したあと、思ったとおり紀州勢が蠢動し始めた。
三月十八日、紀州勢が岸和田城を攻めたてたとき、一氏は予想通り敵の数が味方よりはるかに多いことを確かめた。一氏は専ら守勢に回ることにし、敵に味方の数を悟られぬよう兵を隠した。
岸和田勢が挑発に乗らず、戦う意志がないのを見た紀州勢は、岸和田城の包囲のため雑賀の土橋平之丞以下五千人ばかりの兵を残し、主力を堺に向けた。
周到に練った一氏の作戦は思い通りに進んだ。
紀州勢の主力が堺に達した二十一日、突然城の木戸が開き、篭城していた一氏の軍が城外へ打って出た。
予想以上に多い城方の不意の逆襲に、油断していた包囲軍は驚きあわて、態勢を立て直す間もなく蹴散らされた。
紀州の岸和田包囲軍がちりぢりになって逃げるのを、一氏の軍勢は幾つかの部隊に分かれて追った。
田んぼの中や、道端に首のない一揆勢の死体が散乱している。大方は駆り出された農民兵だが、中には鎧兜をつけた行人の死体もあった。
次々に首印が一氏のもとに首実検に届けられた。思いもかけなかった大勝利に、一氏の武将たちは皆、興奮していた。
一氏は三百ばかりの兵とともに、堂の池と呼ばれる地点まで進出し、敵を追っていった先陣の帰るのを待った。だが、味方はなかなか帰って来なかった。
一氏の頭を不安がよぎった。
堺に向かった紀州勢が引き返して来る前に、態勢を立て直さねばならなかった。それなのに、敵を追うのに夢中になった味方は引くことを忘れている。
すでに何度か、ほら貝を鳴らして戦闘を止める合図をしているのだが、味方は遠くに行ってしまい、聞こえていないようだった。
一氏は、じりじりしながら待った。
敵を深追いすることの危険を、これまでの経験で彼はよく知っていた。
三度目のほら貝を鳴らそうとしたとき、血相を変えた物見が一氏の所へ飛んできた。熊野街道の北に馬の蹴り上げる土煙が見えるという。
「大坂方面の敵が引き返して、こちらに向かっています」
物見は勢い込んで報告した。
一氏の周囲にいた将兵の顔に、あらわな動揺の色が走った。
馬回りの若侍たちは早くも、浮足立って騒いでいる。予想外に早い根来側の転回だった。
「味方は、たったいま戦ったばかりで疲れている。新手の大軍とやり合ってはとても勝てませぬ。ここは早く城に戻るのが賢明でございます。早く退却の下知をなされませ」
年寄りの武士が進言した。
「殿、早く下知を」
他の武士たちも口々に言い立てた。
将たちの狼狽にあおられ、兵たちも立ち上がって騒ぎだした。
堺の方角を心配そうに眺める者、あわてて槍を落とす者もいる。陣の中は騒然とし、もはや踏み留まることは不可能に見えた時だった。
「うろたえるな」
一氏の大声が響いた。
兵たちは驚いて一氏の顔を見た。一氏は怒りに青ざめた顔で武将と兵たちをにらんでいた。
「引くことは絶対に許さぬ。ここで引けば、いま敵を追っている先陣は取り残される。そうなれば、味方は力を失ってくじける。たとえ城に逃げ込んだとしても、敵は勢いに乗って、数に劣る我々を攻め落とす。ここは絶対に持ちこたえねばならぬ。引く者は切る」
そういうと、一氏は刀を抜いて武将たちの目の前に差し出した。一氏の言葉を聞いて、兵たちの動揺はたちまち収まった。
「一揆はどれだけいようと、先陣を切り崩せば、二陣も崩れる。相手は所詮、百姓や坊主の集まり。恐れることはない。わしは天王寺の戦いでも十倍の一向宗徒を打ち破った。ここは、わしの采配に任せよ」
そういうと、一氏はどっしりと床几に腰を下ろした。ここで敵を待ち構える作戦だった。
「全員、松林の中に隠れて敵の来るのを待て。敵が近づいたら、合図を待って一斉に射撃せよ。それまでは撃ってはならぬ」
一氏の指示で、将たちは敵に見付からぬように兵を隠した。
息を押し殺し、敵が来るのを兵たちはじっと待った。
やがて、向こうの松林の陰から、鑁の字の旗差し物を高く掲げた根来の軍団が近付いてくるのが見えた。
◇
堺から大坂に進んだ紀州勢は岸和田での味方の敗北を知り、攻撃を中止して反転した。岸和田に戻ったときは、既に辺りが薄暗くなっていた。
戦はすでに終わり、道や田の中には首を取られた行人の死体が転がっている。折れた刀や槍があちこちに散乱し、兵糧を詰めた打飼袋からこぼれた米が、踏みつけられて泥土にめり込んでいる。
火縄銃のほか、火薬と弾の入った胴乱は、すべて敵が持ち去っていた。
予想もしなかった味方の敗軍に、紀州勢の受けた衝撃は大きかった。堺、大坂での一方的な勝利に酔っていた行人たちも、仲間の死体に動揺し、黙ったまま歩いている。
堺に向かう前に、一度岸和田城を攻めて消耗させておくべきだった。城を囲みつつ、残りを大坂に向わせるという中途半端な作戦が失敗だった。敵の人数はたかが知れていると甘く見ていたが、敵は戦力を隠していた。
若左近は唇をかんだ。
若左近は、伝令から敗軍の知らせを聞いたときの道誉の驚きぶりを思い出した。
顔は青ざめ、目はうつろだった。道誉でさえ今回の敗北は全く予想外のことだったのだ。
部隊は浜辺の松林に入った。ここから岸和田までは二、三丁の距離だった。
すでに、あたりはとっぷりと暮れ、茂った松林の中は全く見通しがきかない。部隊は警戒しながら進む。若左近は前を行く行人の背中に付けた白い布切れを目印に歩いた。
急に隊列が止まった。行人たちがそのまま立っていると、やがて前の方から口伝えで、道誉の下知が回ってきた。
「これから先に敵が潜んでいる恐れがある。十分気をつけよ。敵の気配があれば、すぐに知らせよ」
命令が後ろまで伝わると、部隊はまた動き出した。
月が雲の中から顔を出し、辺りがすこし明るくなった。
部隊は松林から街道に出ようとしていた。
「パンパン」
突然、右側の松林の中から、銃声が続いて聞こえた。同時に空気を切り裂いて銃弾が飛んできた。
たちまち、先頭の何人かがその場になぎ倒された。薄闇の中で、いくつもの赤い炎が光るのが見えた。
銃声を聞いた途端、若左近は反射的に地面に身を伏せた。道誉のいった通り、やはり敵が待ち構えていた。
「散れ」
道誉の絶叫が聞こえた。若左近は立ち上がって走り出そうとした。だが、銃弾が脇をかすめ、前へ進めなかった。若左近はまた土につっ伏した。口の中に土が入った。
銃声の合間には矢がうなりをあげて飛んできた。地面に伏せた行人の背中に矢が突き刺さり、悲鳴があがった。
敵は二十間ばかり離れた松林に隠れて、こちらを狙っているようだった。林の中を左右に走る人間の黒い影が見える。
松林はまわりより少し高いところにあり、待ち伏せには絶好の場所だった。こちらは遮蔽物のない平地である。
弾は正確にこちらに向かって飛んでくる。銃撃の激しさから判断して、相当な人数の敵がいるように思われた。
「固まるな。左右に散れ」
道誉が声を枯らして叫んでいる。
絶え間無く飛んでくる敵の銃弾に、味方は全く身動きが取れず、犠牲は増えていった。
敵の銃撃はいつやむとも知れなかった。
やがて撃ち疲れたのか、敵の銃撃がすこし収まってきた。味方も態勢をようやく立て直し、反撃を始めた。
若左近も、体の下敷きになっていた銃を引き出すと、伏したまま、松林に見え隠れする敵の影を目掛けて発砲した。
銃の筒先から赤い炎が噴き出す。だが、敵に当たったかどうかは分からなかった。
早盒(はやごう)から弾を銃にこめる手が震え、玉薬がこぼれる。稽古のときより焦って時間がかかった。
敵は味方の火縄の火を狙って撃ってくる。火縄の焦げる臭いと煙硝の臭いが、辺りに漂っている。
発射した敵の銃口が光った辺りを狙って、夢中で撃ち続ける。銃身が熱くなり、手の平が焼けそうだった。
松の木の上で狙撃していた敵の足軽が、味方の銃弾に撃ち抜かれ、叫び声を上げて下に落ちた。
鈍い音と、うめき声が聞こえた。
敵陣からの射撃が、また激しくなった。弾に混じって、矢が降り注いでくる。まっすぐに飛んでくる鉄砲とは違って、斜め上から降ってくる矢は伏せて避けられない恐ろしさがあった。
弓隊の攻撃のあとは、槍隊の突撃が通常の攻撃順序である。若左近は敵の槍隊が側面に回りこみ、突撃態勢に入ることを警戒した。
「両側に気を付けよ」
道誉の声が聞こえる。だが、敵も暗闇の中で用心していると見え、側面に回った気配はなかった。
再び、前面の敵に注意を移した時、急に肩に鉄槌をくらわされたような衝撃が走り、若左近は後ろにのけぞった。
叫ぼうとしても言葉が出なかった。体を動かそうとしても、少しも動かない。一瞬意識が薄れたが、痛みですぐに正気にもどった。
肩を触ると、生ぬるい液体の感触がした。すぐに血だとわかった。
双方の銃撃はなお続いている。体の上を敵の弾丸が、うなりを上げて飛んでいく。若左近は、体を丸めることしかできなかった。
そのとき急に敵の銃撃が止まった。敵陣からほら貝の音が響き、鎧の触れ合う音と、人の騒ぐ声が聞こえた。
味方の銃声も止み、辺りは静かになった。松林から敵の気配が消えた。
何が起きたのか、若左近には分からなかった。味方の兵は動かず、伏せたままでいる。みな敵の策略を警戒しているのだ。
突然、後方で馬のいななきと人の声が聞こえた。若左近は敵が背後に回ったと思い、思わず身をすくめた。
だが、それは敵ではなかった。堺から遅れて引き返してきた味方の部隊だった。
敵は別の紀州勢が近付いてきたのを察知し退却した。あざやかな引き際だった。
「助かった」
張り詰めていた神経が急に緩み、再び気が遠くなった。
◇
若左近が、傷の痛みと疲労のあまり、気を失いかけた時だった。
「道誉殿が撃たれた」
前で誰かが叫んだ。
その声を聞いて、若左近は正気に帰った。立ち上がろうとしたが、肩が痛み、再び後ろへ倒れた。
そばにいた行人が、叫び声のした方へ走り出す。ほかの者も後を追う。若左近は銃を杖にして、やっとの思いで立ち上がり、彼らの行く方へ進んだ。
行人たちが集まっているところに、ようやくたどり着くと、行人の持つ松明に照らされて、仰向けに寝かされた道誉の姿が目に入った。
さっきまで大声で叱咤していた道誉が、動かずに横たわっている。
周りの行人たちは、茫然と突っ立っている。上を向いた道誉の顔は、安らかで眠っているようだった。しかし、左胸の赤い血の色と、土気色になった顔色が死の事実を示していた。
道誉は敵が退却を始めたとき、追撃の下知を下そうと立ち上がった。そのとき、敵陣から飛んできた一発の流れ弾が、道誉の左胸を打ち抜いたのだという。
若左近たちが放心状態でいるところに、行人たちを掻き分けて誰かが進んできた。
「おまえたちは、どこの院のものか」
誰何したのは蓮華谷の旗頭、道場坊祐覚だった。
「成真院の者だ」
行人の一人が答えた。
「道誉殿はどこにいる」
「たった今の戦いでなくなられました」
「なんと」
祐覚は絶句した。
祐覚はひざまずいて道誉の遺骸に手を合わせた。
「敵がまた攻撃してくるかも知れぬ。とにかく、いったん積善寺の砦に入ろう」
祐覚はこういい残して立ち去った。
数えると、道誉の外にも五人が銃弾に当たって死に、十人ばかりが深手を負っていた。
敵方は急いで撤退したらしく、松林の中に敵兵の死体が七体、放置されていた。
若左近たちは仲間の遺体を馬に乗せ、傷付いたものに肩を貸して積善寺の砦に向った。
まだ、遠くで銃声が聞こえた。風に乗って鯨波の声が聞こえてくる。戦の勝ち負けは見当がつかなかった。