眠れない一夜が過ぎ、夜が白んで来た。若左近は眠るのを諦め、立ち上がって砦の崖の方へ歩いて行った。行人たちは、あちこちで固まってまだ眠りこけている。行人たちがかぶっている蓆(むしろ)の上に霜が下りて白くなっている。
砦の端から見ると、ちょうど根来寺の方角に当たる東南の山の端から太陽が顔を出すところだった。
稜線の一角から一条の金色の光が噴き出し、みるみる、その線が太くなっていく。
やがて、ゆっくりと太陽が顔を出し、紺色の空はたちまち明るい金色の光で満たされた。
まばゆい太陽の光を見て、若左近は大伝法堂の中の金色に輝く本尊、大日如来を連想した。
我々には大日如来の加護がある。そう思うと、高ぶっていた気持ちが落ち着くのを感じた。
神仏にさほどの敬意を持っていなかった若左近だったが、戦場に出て初めて、行人たちが仏を尊ぶ気持ちが少し理解出来た。
勇猛な行人といえども、戦はやはり不安なのだ。
空は完全に明るくなり、鳥がさえずり始めた。
ますます輝きを増す太陽に若左近は、体に力がみなぎってくるのを感じた。
行人たちも起きてきた。彼らも十分眠れなかったらしく、目が赤かった。砦に手伝いに来ている百姓の女房たちが、土鍋に湯を沸かして配っている。
干し飯を口に入れ、湯を含んで口の中で軟らかくしたあと、腹に入れた。昨日、信達庄でもらった焼き栗も食べた。
体が暖かくなり、同時に眠気が襲ってきた。だが、間もなく出立の時刻だった。
「食えるときに十分、飯を食っておけ。戦になれば、いつ食えるかわからぬ」
道誉は食事をしている配下の行人たちに声をかけて回った。
根来の部隊は佐野砦を出発した。
道誉の率いる鉄砲隊は岸和田攻めには加わらず、そのまま熊野街道を北上し、堺から大坂を目指すことになっていた。若左近もその一員だった。
一方、十郎太の属す槍隊は、岸和田攻めに加わるため、佐野に残った。
彼らは、ここから雑賀衆の舟に便乗して貝塚に上陸し、城の攻撃に移る手筈だった。
これとは別に海から直接、岸和田城を攻撃する一隊もあった。
雑賀衆のほか、淡路の菅氏の配下の兵たちが舟を操った。
岸和田の海上には、中村一氏側についた和泉の水軍、真鍋貞成の船も食糧輸送のため行き交っており、海上で遭遇すれば海戦になることも予想された。
港を通った時、若左近は、岸にもやっている舟の上に、顔見知りの根来の行人が雑賀衆とともに座っているのを見た。水上での射撃を得意とする雑賀衆は揺れる舟の上から、遠い波間に浮かぶ木切れを狙って撃つこともできるという。
余裕のある雑賀衆と異なり、舟戦の経験のない根来衆は表情が堅く、緊張しているように見える。
若左近たちの一隊は、浜昼顔が薄桃色の花を付けている松林の中を進んでいく。朝のさわやかな空気の中を潮の香が漂ってくる。遠くで波の音が聞こえる。寒さはようやく緩んできたようだった。砂から伸びたコウボウムギの細長い葉が風に揺れている。白い花を付けたハマボウフウが風の強い砂浜にしがみつくように生えている。
鉄砲を肩に担いで行軍しながら、若左近は舟の中で青ざめていた若い行人たちの顔を思い出し、不吉な予感に駆られた。血気にはやる若者も、いざ戦場に出れば死の恐怖を感じないではいられない。一体、彼らのうちの何人と生きて再会できるだろうか。
松林の中の道は、行人たちのほかには通る者はない。鳥の声も聞こえず、静まり返っている。
道誉の部隊は、松林の中に潜んでいるかも知れない敵の素破(すっぱ=忍者)を警戒しながら、岸和田に向って進んだ。
◇
根来の軍勢は、細長い行軍の陣形を取り、覚鑁(かくばん)上人の名前からとった「鑁」の字が染め出されているのぼりを押し立てて熊野街道を北へ向かった。
この辺りは、根来寺の知行であり、進路を妨げる者はいない。根来の行人たちにとっては勝手知った土地である。
一年ぶりに故郷の熊取庄を通ったとき、若左近は沿道の人垣の中に何人もの知り合いの顔を見つけた。
彼らもまた、若左近に気付き、手を振っていた。若左近は、どこかに母親がいないか探したが、姿を見付ける事は出来なかった。
心配性の母親は寺で仏に子供の安全を祈っているのかも知れない。息子の身を案じて、じっとしていられないのだろう。
若左近には見なくても、それが想像できた。必死に礼拝している母親の姿を想像すると、胸が痛くなった。
若左近は子供の頃に遊んだ友に会いたいと思ったが、誰も見つけることはできなかった。男は若左近と同様に兵に取られ、女は山に逃げているのだろう。
軍勢はやがて貝塚に着いた。ここで部隊ごとに決められた砦に入った。
道誉の率いる隊は積善寺城に入った。ここで大坂に攻め上がる時期を窺うと同時に、砦の警護に当たるという。
積善寺城は近木川の左岸、熊野街道に接した橋本の集落の端にある。
もともと和泉四長者の一人、郡吉長者の持仏観音堂であったのを、三十年ばかり前、根来寺が三好衆との争いに備え、周囲に土盛りして砦にした。
東は七十八間二重堀、西は九十三間三重堀、南は百二十間三重堀、北は百三十二間三重堀で、中に三十五間四方の本丸が築かれている。
貝塚の砦の中では最も堅固な構えだった。地元出身の出原(橋本)右京、法橋頭(ほっきょうとう)三位、山田蓮池坊(れんちぼう)らに率いられた根来の精兵五千が守っており、中村一氏の兵も積善寺には容易に手を出せなかった。
◇
岸和田城と紀州勢がにらみあっているころ、秀吉はまだ尾張には出発せず、大坂城内にいた。和泉の状況が気になって出発を遅らせたのだ。
大坂城はほとんど完成し、本丸の東側には、山里の庵に見立てた茶室を持つ山里丸が作られつつあった。
城の内堀と本丸の石垣に囲まれた山里丸はひっそりとして、静かに茶を飲むにはよい場所だった。
金色の瓦屋根が日の光に輝き、白壁が空と堀の青に映えて、美しい対照を見せている。
城下からは町造りの槌音が聞こえてくる。ここからほんの数十町ほどの岸和田で激しい戦闘が行われているとは、とても思えない、のどかな午後だった。
ヒノキの香りが漂う二の丸の大広間を襖(ふすま)が取り巻いている。襖には青地に金泥で、唐獅子と赤い大輪のボタンの絵が大きく描かれている。桝目に仕切られた天井には花鳥風月が描かれ、居ながらにして四季の美しさが満喫できる。これら襖絵は、派手好みの秀吉が、お気にいりの絵師の狩野山楽に描かせた豪華な大和絵の作品だった。
大広間に居並ぶ、子飼いの武将たちの前で、秀吉は脇息に寄り掛かったまま、あごひげに手をやり、不機嫌そうな顔付きで座っていた。秀吉のそばには、軍師の黒田官兵衛長政が座っている。
「長可(ながよし)めが余計なことをした。せっかく勝入が犬山を手に入れたというのに、作戦が台なしではないか」
秀吉はため息をついた。
秀吉の不機嫌は、昨夜、尾張から着いた早馬の知らせが原因だった。
池田勝入斎恒興の女婿である森長可が、犬山城に続いて小牧城も奪おうとして、家康方の酒井忠次、松平家忠、奥平信昌らの軍に迎撃され、大敗を喫した。
本能寺の変で信長に殉じた森蘭丸を弟にもち、鬼武蔵と呼ばれ剛勇を誇った長可自身もこの戦いで重傷を負った。
長可はいったん自決を覚悟して、遺言を書く用意をしたが、敵の追撃が止まり、かろうじて生き延びた。
先に犬山城を奪取した恒興に刺激された森長可が功を焦ったための勇み足だった。緒戦の勝利に気を良くしていた秀吉にとっては、手痛い打撃だった。
秀吉は迷っていた。
いまここで尾張に後詰め(支援)の兵を出さなければ、せっかく池田勝入が奪取した犬山城が再び敵に奪い返される恐れがある。とはいえ、ここで大坂を空けることにも不安がある。
秀吉が大坂を出れば、貝塚まで押し寄せて来ている紀州勢が大坂に攻め寄せ、背後を突く危険がある。
尾張に自ら行くべきか、勝入に任せるべきか。さっきから、それを秀吉は考えていた。
「清正、お前はどう思う」
秀吉は、前にいる加藤清正に声をかけた。
「池田勝入と森長可を救援するために、すぐに兵を出すべきではないかと存じます。このままでは尾張は家康の手に落ちてしまいます。ぜひその役目を私にお申しつけ下さい。すぐにでも小牧城を落としてみせましょう」
いつもの通り、加藤清正は性急だった。
「三成、そちはどうだ」
「もう少し、ここで待つべきではありませぬか。いま動けば紀州勢が攻め上ってくる恐れがございます。東から来る徳川との挟み撃ちになる恐れさえあります」
石田三成もまた、普段の通りの慎重論である。
そんな三成を清正は横から小馬鹿にしたように見ている。同じ近従でありながら、加藤清正と石田三成は常に意見が異なり、仲が悪かった。
秀吉は、なお決心がつきかねていた。すると、そばにいた黒田官兵衛がおもむろに口を開いた。
「私は、尾張表に出るべきかと考えます。岸和田にいる中村一氏殿は知られた剛の者。守りは少数とはいえ、容易に紀州勢に敗れることはありますまい。それより、いま犬山を抜かれては、味方が再び尾張に入ることは難しくなりましょう。勝入殿だけでは、したたかな家康に勝ち目はない。あとで悔やんでも、取り返しがつきませぬ。ここは、中村一氏殿に任せ、思いきって上様自らが尾張表に発向するのが上策かと考えまする」
「ふむ」
秀吉はまた、ほお杖をついて考えこんだ。
決断の速い秀吉としては珍しい長考だった。武将たちは、何もいわず、秀吉の決断がつくのをじっと待っている。
しばらくして日が陰り、広間の中が薄暗くなってきた。
屏風に描かれた虎の絵が少し見にくくなってきたころ、急に秀吉が体を起こした。その顔からは、先ほど見せた迷いは、すっかり消えていた。
「よし、尾張へ発向じゃ。官兵衛、そちは大坂に残って、岸和田の一氏を助けてやれ。ほかのものは、すぐに出陣の支度にかかれ」
そういうと、秀吉は立ち上がり、かしこまっている武将たちを残したまま、小姓を従えて広間を出ていった。
◇
尾張出兵を決断した秀吉は、天正十二年(一五八四)三月二十一日、三万人の軍勢を率いて大坂を出立した。合流してくる味方や池田勝入ら軍勢と合わせれば、十万の大兵力である。
加藤清正、福島正則ら子飼いの武将たちのほか、小早川秀包ら西国の大名たちが従った。大坂城には、黒田官兵衛のほか、蜂須賀家政、生駒親正らが残った。
秀吉の軍勢が尾張に向かったとの知らせはすぐに貝塚の砦に届いた。紀州勢は早速動き出した。
積善寺城にいた道誉の部隊にも、根来寺惣分から出撃の下知が下された。道誉は山手の副大将に任ぜられた。
当初の計画通り、岸和田城包囲は他の部隊に任せ、道誉らの部隊は熊野街道を北上、一路堺を目指した。
岸和田城のすぐそばを通ったが、城に立て篭もる中村一氏は攻撃をしかけてこなかった。
全く抵抗のないまま岸和田を通過し、その日のうちに根来勢は堺の町に入った。
◇
かつて商人達が自ら治めていた堺の町も、永禄十一年(一五七八)、上洛した信長が武力で恫喝して支配下に組み込んでから、昔日の覇気をすっかり失っていた。
海外に雄飛した誇り高い商人町の面影はもはやなく、いまは権力者に取り入る卑屈な町人町に成り下がっている。
信長の亡き後も、一度失われた自治は再び戻らず、秀吉が堺政所(まんどころ)を置いて支配していた。
そしていまは、鉄砲を通じて浅からぬ因縁のあった根来と、敵味方に別れている。
紀州勢は堺の町を焼き立てながら進んだ。
秀吉方の抵抗は全くなく、根来勢は怒涛の勢いで進撃した。
すでに住民は紀州勢の来るのを予知し、家財道具を持って逃げ去ったあとだった。
堺の町は無抵抗のまま紀州勢に占領された。
代官松井友閑の治める堺政所は、行人たちによって完全に破壊され、火をかけられた。
松井友閑らは逃げ去っていた。紀州勢は道を急がず、通った所は徹底的に破壊し放火した。
鉄砲町の武器商人の家に押し入り、残っていた火薬や煙硝を奪った。豪商の邸宅も火にかかって灰となった。
大坂城から南下してきた数百人の黒田の兵が、大和川の北岸から紀州勢に鉄砲を撃ちかけたが、紀州勢の鉄砲での反撃に押されて、すぐに大坂城にもどった。
紀州勢は、黒田勢の後を追うように大和川を渡り、住吉、天王寺に乱入した。
これほど早く紀州勢が来ると予想していなかった大坂城下は、たちまち大混乱に陥った。
家財道具と家族を大八車にのせ、逃げようとする人々が道路をふさぎ、怒鳴りあっている。
あちこちで火の手が上がり、女の絶望した悲鳴と、おびえて泣き叫ぶ子供の悲鳴が聞こえる。
主人のところに馳せ参じようと、刀を背に裸足で血相を変えて走っていく小者が荷車に道を邪魔され、大声でわめいている。
前の年に高山右近の手によって河内から大坂に移されたキリスト教会堂も火に包まれていた。
銃弾と火矢が飛んで来る中を、宣教師と信徒たちはゼウスとイエスの御名を唱えながら、必死で脱出した。
キリスト教信徒たちの目には、かねてから凶悪な噂を聞いている根来の行人たちが、ヨハネ福音書の中の最終戦争(ハルマゲドン)に登場する悪魔の軍団に見えた。
信徒の中には、脱出を命じる宣教師の指示を聞かず、教会堂の中のイエス像を持ち出そうとして焼け死んだ武士の妻もいた。
秀吉が莫大な労力と財貨をつぎ込んで築いた大坂の町は破滅に瀕していた。
「家は残さず焼け! 抵抗するやつは撃ち殺せ」
燃え上がる炎に顔を赤く染めて、道誉が大声で下知している。
成真院の行人たちは手に持った松明(たいまつ)を次々に民家のひさしにつけていく。このところ雨がなく、乾ききっていた板葺きの民家は、たちまち燃え上がった。
遠くでパンパンという鉄砲の音が聞こえる。物見に行かせた行人の報告では、大坂城から新手の兵が出てきたが、味方に反撃されて、すぐに戦闘は終わったという。鉄砲の音はすぐに聞こえなくなった。
民家を焼き払いながら、若左近は道誉の形相の変化に驚いていた。
燃え上がる火炎を背景に、抜き身の刀を振り上げ、憤怒の形相で行人衆を叱咤している道誉は、まるで伽楼羅炎(かるらえん=仏典にある巨鳥ガルーダの羽の形をした炎)の中に座す不動明王そのものである。日ごろの温厚な道誉とは全くの別人だった。
不意に背後で悲鳴が聞こえ、同時に鉄砲の音が鳴った。若左近が振り返ると、家の中から、中年の男がよろめきながら出てきた。男は数歩歩いて前に倒れた。
「素破(=間諜)をしとめたぞ」
男に続いて家の中から出てきた行人が大声でいった。
若左近には倒れた男が本物の素破かどうかはわからなかった。むしろ、何かの職人のように見えた。ひょっとすると逃げ遅れて、隠れていたのかも知れない。
しかし、確かめている暇は戦場にはない。逃げ遅れたのが悪いのだ。もし、素破でなかったとしたら、この男は単に不運だったのだ。
あちこちで逃げ遅れたものたちが行人たちの手にかかって殺され、倒れていた。足軽の死体は少なく、ほとんどが町人だった。
紀州勢から見れば、この大坂の城下で暮らしている者すべてが敵だった。
彼らが大坂に住み、大坂の町を栄えさせることで、秀吉が権勢を振るうことができる。
それゆえ、彼らを殺すことに行人たちは何の抵抗も感じていない。仏に仕える自分達が民を殺し、家を焼くことにも何ら疑いをもっていなかった。
若左近は、路傍に目を開けたまま仰向けに倒れた女の死体が、自分をにらんでいるように思えて目をそむけた。
根来の行人たちが大坂城にあと十町ばかりの距離に迫った時、堺の方角から一頭の馬が追いかけてきた。
行人たちによって押し止められた馬の背には、若い行人がぐったりとしながら、しがみついている。
それは浜手の部隊からの早馬の伝令だった。伝令の行人は、矢を背中に射掛けられて大怪我をしていたが、一刻も早く報告するため、そのまま道誉のもとに連れられてきた。
伝令の報告を聞いているうち、道誉の顔色が青ざめるのが、そばの者にも判った。
報告が終わったあと、道誉は大声で周りに伝えた。
「岸和田の攻め衆がやられた。大坂を焼くのは断念し、すぐ岸和田に引き返す」
岸和田城を囲んだ浜手の軍が、城から打って出た中村一氏の兵によって敗北したという。
根来勢は大坂への攻撃を中止すると、向きを換え、味方の救援のため、岸和田に向かった。
大和川を渡るとき、若左近は後ろを振り向いた。大坂の町から、黒い煙が立ち上がっているのが見えた。