根来と岸和田の争いが始まってから二カ月が過ぎた。戦況は一進一退のまま、冬がやってきた。
山に囲まれた根来の冬は厳しい。閼伽水を汲む井戸はしばしば凍って使えず、沢の水を汲みに行かねばならなかった。
夜寝るとき、行人たちは布団にくるまって寒さをしのいだ。
いつもなら、二月の中頃になれば梅がほころぶのに、ことしはまだ、つぼみが堅く、一向に開く気配を見せない。
日の当たらない山の陰には、だいぶ前に降った雪がいつまでも解けずにそのまま残っていた。
枯れた林の中でモズが甲高く鳴くのも、いかにも寒々と聞こえた。
そんな底冷えのする三月の初めの夜だった。
床についた杉の坊が寝付けず、布団の中で今後の寺の行方について思案をしていると、不寝番の行人が、ふすまの外から声をかけた。
「藤林伊賀殿が浪速から帰られました」
明算は起き上がって着物を身につけ、藤林伊賀の待っている書院に向かった。
書院へ通じる廊下は障子窓から入る月明かりしかなく、薄暗かった。
空気は凍り付くように冷たく、冷気が板から足袋を通して足に伝わってくる。
吐く息が薄闇の中で白く見える。床を踏む自分の足音が廊下に響き、どこかで山犬の遠吠えが聞こえた。
廊下の奥にある書院の障子から明かりが漏れていた。明算は足を速めた。
書院の障子を開けると、広い部屋の真ん中で藤林伊賀が畳にあぐらをかいて座っていた。そばの燭台の蝋燭の光が、疲れたような藤林伊賀の顔を照らし出している。
入ってきた明算の顔を見て、藤林伊賀は座りなおし会釈した。
藤林伊賀のそばには、放下僧(ほうかそう)が使う曲芸や手品の道具が置いてある。
放下僧は、傀儡(くぐつ)師などと同様、諸国を放浪して日々の糧(かて)を稼ぐ流浪の芸人である。
烏帽子をかぶり、笹を背負った異形のいでたちで、小切子(こきりこ)を鳴らしながら小唄を歌い、曲芸を演じた。
庶民の娯楽であり、どこの城下へも出入りできたので、密使や間者はしばしば放下僧を装った。
大坂に潜入していた藤林伊賀の姿は、根来を出た半年前に比べてひどくやつれている。
疲れた顔付きと擦り切れた袴の裾(すそ)に、浪速での藤林伊賀の苦労が見て取れた。
「伊賀、よく無事に帰ってきたな。役目ご苦労だった」
「大日如来の御加護のお陰でございます」
明算のいたわりのことばに、藤林伊賀は低い声でつぶやくように礼をいって頭を下げた。
彼は、めったに感情を顔に表さない。
それは長いあいだの密行生活で身につけた習性のようだ。
年齢は、明算とそれほど変わらないはずだが、日に焼け、しわが刻まれた浅黒い顔は、十歳以上も年をとっているように見える。
明算とは、初めて石山合戦に参加したころからの古い仲間で、お互いの気持ちはよく分かっていた。
「大坂の様子はどうだった」
明算は、はやる気持ちを抑えていった。
「城は大方完成し、仕上げに入りました」
「そうか、とうとう、できたか」
明算の顔に、かすかに落胆の表情が浮かんだ。
予想していたとはいえ、完成したと聞かされると、やはり無念だった。拠点大坂を守る城ができあがれば、秀吉はもはや、いつでも安心して動き出せる。
「それで、秀吉の動きはどうか」
「報告に帰ったのは、その事を伝えるためでございます。数日前から大坂城下に畿内、西国の兵が集結しておりましたが、昨夜、ひそかに一隊が、城から東の方に出て行くのを見ました。数日前から秀吉の兵が兵糧を大量に用意しております。間違いなく、近日中に秀吉自身が発向し、尾張表で家康、信雄に攻撃を仕掛けるものと思われます」
明算は藤林伊賀の報告に少しも驚かなかった。
考えていた通り、やはり秀吉の目標は尾張だった。紀州と和泉への発向の噂は、尾張を攻めるための陽動作戦だったのだ。
「秀吉が紀州発向をあちこちに触れ回ったのは、やはり家康を油断させるための策略だったか。三河にいる家康も警戒していようが、こう早く攻めてくるとは思っていまい。早速、急の使いを出して、この事を家康に知らせてやろう。いや伊賀、よくぞ知らせてくれた。これで秀吉の計略に乗せられずにすむ」
いつものことながら、重要な知らせをもたらす藤林伊賀は、明算にとって真に頼りになる存在だった。
「長い間、敵の中にいて、さぞかし気を使ったことであろう。大儀であった。ゆっくり休んでくれ」
明算は手厚くねぎらいの言葉をかけた。藤林伊賀は疲れた表情のまま、頭を下げて書院を引き下がった。
明算は手をたたいた。さきほどの警護の行人が障子を開けて顔を出した。
「明朝すぐに旗親を集めてくれ」
「心得ました」
行人は短く答えると、すぐに姿を消した。
広い書院の中で、明算は一人考えに耽った。
家康との同盟という選択が、いまさらながら重く感じられた。できるだけ避けたいと思っていた秀吉との戦に、ついに巻き込まれた。
敵にしたくない男と戦わねばならない状況に追い込まれたことに、明算は、にがい思いを感じていた。
いまとなってはもう遅いが、あの大衆詮議の場では、もっと敵の力を分析して慎重に議論すべきだった。行人たちの感情に流された強硬論を押さえ切れなかったという自責の念が明算の心に重くのしかかった。
秀吉のしわだらけの笑い顔が明算の脳裏に浮かんだ。
◇
事態は予想以上の速さで進んでいる。
十年前は数年かかったことが、いまは数ヶ月で進む。
その最大の原因は鉄砲の破壊力である。
かつて戦では、敗北しても壊滅的な打撃を受けることはなかった。
ひとつの戦闘での死者は、せいぜい数百人程度だった。
領地に逃げ帰れば怪我人も傷を癒し、領内から若い兵を募って新たな軍勢を編成することができた。
南北朝時代が五十年も続いたのは、相手に致命的な打撃を与える決定的な武力を双方が持っていなかったためである。
しかし、今はひとたび戦に負ければ、その軍勢の多くは鉄砲で死ぬ。鉄砲の数と人数が勝敗を一気に決するのだ。
それなのに根来の行人たちは、いまだに小勢力の武士と戦っていたのどかな時代の記憶から離れられない。かつては敵を圧倒した根来の鉄砲がいまでは、ありふれた武器になっていることに気づいていない。
警護の行人が閉めていかなかった障子の隙間から、冷たい風が吹き込んでくるのも構わず、明算はじっと考えていた。
翌朝、招集された旗親たちが、明算のもとに集まり、明算は藤林伊賀の報告を知らせた。秀吉の尾張発向を伝える使いが、浜松の家康のもとに送られた。
同時に待機していた残りの軍勢が泉州表へ向かう支度にかかった。行人衆が各旗親の元に編成された。
旗親のもとに鉄砲、槍、弓頭が属し、その下に鉄砲隊二百人、弓槍隊各五十人ずつの行人が配置された。
主力兵器はむろん鉄砲である。隊列の先頭に鉄砲隊が立ち、弓、槍隊が後に続いた。
雨に弱く、弾込めにも時間がかかる鉄砲隊を弓隊が後ろから援護する。槍隊は、城への突撃や接近戦で敵を圧倒する役目を担っている。
銃弾や兵糧を運ぶ荷駄隊も多数必要だった。戦闘になれば、これらの隊が組み合わされて使われる。
雑賀、太田郷でも兵が召集され、和泉表に送り出された。
根来と雑賀の鉄砲衆を合わせれば五千人、槍と弓を合わせると、一万人を超える戦力である。これだけの大人数が動員されるのは、石山合戦以来だった。
紀伊や和泉で飼われていた牛馬が、運搬のため強制的に徴発され、駆り出された。
兵糧用の米が寺内の広場にうずたかく山積みされた。
堺からは鉄砲と硝石が商人によって大量に運び込まれた。鉄砲と硝石の持ち出しは、秀吉方によって厳しく監視されていたが、それでも儲かるとなると、見張りの目をくぐって持ち出すのが商人である。
門前町の坂本で鎧や鉄砲を商う店の中は、品定めする行人たちでいっぱいだった。
実戦に参加することを心待ちにしていた若左近と十郎太にも、ついに出動命令が下った。
若左近は小密茶指揮の鉄砲隊、十郎太は雲海坊指揮下の槍隊に配属された。いずれも道誉の配下だった。
二人は、やっと巡ってきた出撃の機会に心の高ぶりを押さえることができなかった。長い間、辛い稽古に耐えて続けてきた修業がようやく実るのだと思うと心が勇んだ。
海陸三手に分かれて北上する紀州勢の中で、道誉たちの部隊は山手を進むことに決まった。浜手を行くもう一隊が、岸和田の中村一氏の軍勢をくぎづけにしている間に、直接大坂を目指す手筈だった。海からの部隊も船団を組んで岸和田を目指した。
紀州勢の進撃準備が整った三月十七日、浜松から清洲城に移っていた家康からの早馬が根来に着いた。こちらからの使者が出たのと、ちょうど入れ違いだった。
四日前の十三日夜、それまで信雄方が押さえていた尾張犬山城が美濃大垣城主の池田勝入(しょうにゅう=恒興)の奇襲によって奪い取られたとの知らせだった。
秀吉が動いたという根来からの連絡は一足違いで無駄になった。明算と藤林伊賀の落胆は大きかった。
◇
信長の乳母の子である池田勝入恒興は、信長の父信秀の代から織田家につかえた。
池田氏は清和源氏、源仲政の子の池田泰政を祖とする。摂津の池田を根拠地とした。池田氏の一部は尾張に移住し、その子孫に池田恒興が生まれた。
織田信秀の死後、後継をめぐって信長と弟信行が争ったとき、池田恒興は信長に付いた。信長の命を受け、信長の病気を口実に清洲城へおびき寄せた信行を謀殺した。
その後も桶狭間の戦いなど数々の戦いで戦功をあげ、信長から犬山城を与えられた。
天正六年には、信長に背いた荒木村重を滅ぼして、尼崎を手に入れた。信長の死後は摂津の国を領したが、天正十一年に領地を秀吉に譲り大垣に移った。秀吉は摂津の中心、石山本願寺跡に大坂城を築いた。
織田家とのつながりが深い池田勝入を、信雄は大いに頼りにしていた。勝入の家中でも、長年の織田家の恩顧に報いるべきだとの意見は強かった。
だが、秀吉はひそかに勝入を懐柔した。味方につけば尾張を与えるとの条件だった。結局、勝入は信雄を見限って秀吉につくことを決めた。
義理や恩にかまっていては、一族郎党の命運が保証出来ない時代だった。
勝入は、秀吉に味方する手土産に、かつて自分が城主だった犬山城(犬山市)の奪取を計った。
犬山城は木曾川を隔てて美濃ににらみをきかせる戦略上の要地である。
信雄の将、中川雄忠が守っていたが、北伊勢方面で秀吉方との戦闘が起きたため、急遽応援に出て、空き城同然だった。
勝入はこれに目をつけ、かつて城主時代に目をかけた者たちの手引きで、夜陰に乗じて木曾川対岸の鵜沼(各務原市)から舟を渡した。
勝入の兵は水の手口から城内に突入し、一気に攻め取った。
犬山城という橋頭保を確保した結果、秀吉はここからやすやすと尾張に侵入することが出来る。
犬山城を取られたことは信雄・家康方にとって大きな痛手だった。
信雄・家康軍は、急遽戦線を北伊勢から、尾張に向けて立て直す必要に迫られた。
そのためには、秀吉自身の尾張発向を妨害し、少しでも遅らせることが肝要となる。そこで、家康は根来など紀州勢に対し、急ぎ泉州に兵力を出し、大坂を背後から脅かすよう依頼した。
家康からの依頼を受けた紀州勢は、再び日前宮に集まって話し合った。その結果、予定を早めて、直ちに泉州表へ発向することが決まった。
◇
その夜のうちに紀州勢は大坂に向けて進発した。
南紀の勢力も加わった二万の大軍が風吹(かざふき)、孝子(きょうし)の二つの峠を越えて泉州になだれ込んだ。峠には終夜、人馬の列が続き、下から見ると松明の列が道に沿って点々と連なった。
陸からの部隊は山手、浜手の二手に分かれて和泉を北上した。海からは淡路の水軍、菅野平右衛門の兵船二百隻と雑賀の船百隻が、雑賀の兵と兵糧、物資を泉州表の各砦に運んだ。
雑賀の舟は石山合戦の時も、毛利方の水軍と組んで信長方の包囲を破り、本願寺に兵糧を送り込むのに成功している。今回も多くの舟が徴発され、参加していた。
風吹峠はその名の通り、冷たい風が吹きすさんでいた。夜明けの薄闇が次第に明るくなっていくと、葉を落とした木々が寒そうに震えているのが見えた。
若左近の前を鉄砲を肩に担ぎ、胴丸を着けた何百人もの行人が黙々と列をつくって歩いていく。松明はすでに消されていた。
鉄砲の重さを肩に感じながら、若左近は一年前、十郎太とともに、ここを越えて根来に来たときのことを思い出していた。
あのときは信長が殺されてから一年にもならず、柴田勝家がまだ秀吉と勢力を競い合っていた。
その勝家も秀吉に滅ぼされて既に亡い。
そのとき秀吉と手を組んで勝家に対抗した織田信雄が、今度は家康と組んで秀吉と新たな争いを起こそうとしている。
若左近は、世の中があまりにも早く変わりつつあることを実感した。
この激動の時代に、一介の行人である自分もかかわっていることに奇異な思いがした。
秀吉と家康とどちらが勝とうが、そんなことはどうでもよかった。それは、獲物を取り合う獣同士の争いにすぎない。いずれが勝っても結局は、百姓を酷使することであろう。
家康に味方するのは、自分達の当面の敵、秀吉に打撃を与えるためである。自分たちの利益は、自分たちで守るしかないのだ。
若左近はそう信じていた。
◇
道誉の軍勢は風吹峠を越え、信達庄に入った。
ここは二百五十年前の建武四年(一三三七)、足利尊氏に味方した根来寺が、尊氏から四季大般若転読料として寄進をうけた土地である。
鎌倉幕府打倒に協力した足利尊氏と後醍醐帝は、権力をめぐって対立し、敗れた後醍醐帝は吉野に立てこもって尊氏に抵抗を続けた。尊氏は天皇方に対抗するため、根来を寄進で手なずける必要があった。
信達庄は根来寺の泉州での最初の領地となり、その後、寺が泉州知行を広げていく上での拠点となった。
今、若左近たちが進軍していく熊野街道の両側には、信達庄の女達が大勢立っている。
行人の中に女たちの子供や身内の人間がいるのだろう。駆け寄って焼き栗や干し昆布などの食べ物を与えたり、歩きながら話し掛けたりしている。若左近も見知らぬ老女から焼き米の入った袋をもらった。
二百五十年の間に、信達庄の住民と根来寺の間には、固い血縁と地縁が出来上がっている。信達庄の住民にとって根来寺は領主にも似た大きな存在だった。
若左近たちは熊野街道を北上し、途中、佐野に泊まった。古くからの漁港である佐野には、根来寺の出城が置かれ、五百人ばかりの兵が守っていた。
ここは、もともと信長が雑賀攻めのあと、雑賀への備えとして築かせた砦である。根来の杉の坊が守り、支配下に置いていた。
佐野から岸和田までは百町ほどしか離れていない。砦の上からは、港に兵糧や弾薬を満載した雑賀の船がもやいでいるのが見える。この港に、雑賀からの物資をいったん集めたあと、貝塚の諸砦に送り出すのだ。
海からの岸和田勢の夜討ちを警戒し、砦の周囲には赤々とかがり火がたかれている。
行人たちは交代で仮眠をとった。砦には藁が用意されていたが、冷え込みは厳しく、鎧の隙間から寒気が入り込んできた。
見張りを終え、若左近は横になった。
寒さと興奮とで、目が冴えてなかなか寝付けなかった。夜明け近くになって、少しうとうとしたとき、波の音に交じって鯨波の声が聞こえたような気がして跳び起きた。だが、耳を澄ましても、波の音以外には何も聞こえなかった。
「落ち着け」
若左近は自らに言い聞かせる。だが心臓の高鳴りは、なかなかおさまらなかった。
他の行人たちも眠れないらしく、寝返りを打っている。道誉や古参の行人たちは、高いびきをかいてぐっすり眠っていた。
十郎太の部隊は別の砦まで進んだのか、佐野砦にはいなかった。