和泉発向

 血判を押した書状を隠し持ち、夏に浜松へ向かった永意法印が家康の朱印状を持ち帰ったのは、根来の山々の木が赤く色付き始めた十月も末の肌寒い朝だった。
 修験者に身をやつした永意法印は、途中で敵方の兵に出会ったとき、すぐに捨てられるよう、節をくりぬいた竹杖の中に朱印状を隠して帰ってきた。

 日前宮から再び急ぎの使いが四方に出された。翌日には紀州の各地から人が集まった。永意法印は修験者姿のまま、居並ぶ人々に首尾を報告した。

 小さく折りたたまれていた家康の朱印状が広げられ、一座のものに回された。
 朱印状の中で、家康は紀州勢が味方についてくれたことを感謝し、その決断を勇気あるものと称えていた。
 家康は、秀吉が東上して家康・信雄を攻めた場合、紀州勢が直ちに軍を起こし、大坂城を破却することを求めていた。逆に秀吉が紀州平定に向かった場合には、家康が後詰(応援)の軍を出すことを誓約していた。

「天地神明に誓って約束は守る」
 書状の最後には、当時の誓約文書の例に違わず、神仏への誓言が書かれている。
 密約の多くは、平気で破られていたとはいえ、神仏を恐れた古い時代の形式だけはなお残していた。

 紀州勢との同盟を約す朱印状に付けて、家康は小袖一着を永意法印に託した。
 贈られた小袖は、朽葉色の地に葵の紋が入った豪華な仕立てだった。

 家康の豊かな財力を示す小袖を、永意法印は経箱の下に隠し、従者に持たせて帰った。

 小袖は日前宮が奉納品として預かり、朱印状は根来の杉の坊が保管を引き受けた。
 報告を終えた永意法印は、役目を果たし、安堵した表情で従者とともに惣光寺に戻った。旅の疲れと緊張で永意法印の顔はすっかりやつれていた。

               ◇

 家康との間で、正式に同盟が成立したことは、一部の者を除いて秘密にされた。だが、寺の中が急にあわただしくなったことで、根来寺にいる者たちは、事態が急変したことに気がついた。

 四人の旗頭の元に、旗親たちが連日集まって軍議を開いた。戦の訓練は前にも増して頻繁に行われ、稽古の中身も激しくなった。
 雑賀との間を毎日のように使者が行き来し、情報の交換が行われた。

 雑賀の港から、火薬の原料である塩硝や、弾をつくる鉛の塊が馬に積んで運ばれて来る。
 根来からは造られたばかりの鉄砲が雑賀に運ばれ、そこから舟で泉州各地の砦に配られた。

 泉州発向の準備は着々と進められた。ここで旗頭や旗親たちにとって大きな問題は、発向の時期と戦力だった。

 秀吉方も、根来の動きに備えて戦の準備をしていることは、岸和田城に出入りする人間が増えていることで想像できた。しかし、どの程度の兵力が蓄えられているかは、よく分からなかった。

 家康の呼びかけに呼応して大坂に打って出る場合、通り道である岸和田の中村一氏との一戦は、どうしても避けられない。その場合、岸和田に対して、どれだけの兵力を割くか。

 甘く見ると、損害を受ける恐れがあるが、過大な評価をして、岸和田城包囲に部隊を投入しすぎれば、肝腎の大坂北上のための戦力が少なくなる。
 様々な意見が旗親たちの間で戦わされた。しかし、判断材料は少なく、結論は出なかった。

 作戦が練られているうちに、再び家康から、織田信雄との密約がなったとの知らせが紀州勢にもたらされた。
 使いは浜松から舟で伊勢、熊野を経由して雑賀根来にやって来た。
 永意法印が帰ってから、すでに一カ月がたった十一月も末のことだった。

                ◇

 信長の死後、織田信雄(のぶかつ)は兄の織田信孝と不仲になった。信雄は羽柴秀吉と結び、柴田勝家と組んだ信孝に対抗した。

賎が岳の戦で勝家が秀吉に敗れ、秀吉に追われた信孝は知多の内海で自害した。勝ち残った信雄は、明智軍に焼かれた安土城下で、長兄信忠の遺児三法師丸の後見役をしながら、天下の情勢をうかがっていた。

 信雄は、自分が実質的に信長の後を継げるものと期待していた。しかし、賎ケ岳の戦いに勝利し次第に力をつけた秀吉は、やがて信雄を無視するようになった。

 信雄は、秀吉が信孝に続いて自分をも邪魔物にし、織田家を絶やそうとしているのではないかと疑った。
 秀吉が安土城を上回る大坂城の建設を始めたことで、その疑念は、ますます強くなった。

 信長の盟友だった家康もまた、急速に発言権を増してきた秀吉の勢いに危機感を抱き、秀吉を抑える機会と口実を探していた。
 信雄の焦燥を伝え聞いた家康は、秀吉打倒の計画に信雄を誘った。

 家康と密約を結んだものの、優柔不断な性格の信雄には、まだ秀吉と戦う覚悟ができていなかった。とりあえず様子をうかがう慎重な態度を続け、自ら積極的に動かなかった。

 もとより家康は信雄を戦力として期待していなかった。所詮、戦の大義名分をつくる飾りものに過ぎない。しかし、どんな戦も名目は重要である。家康は焦らず、信雄が決心を固めるまで気長に待った。

 根来にあてた書状のなかで家康は、信雄側の準備がまだ整っていないと述べ、戦の支度が整うまで、しばらく泉州表で秀吉の動きを牽制してほしいと書いていた。
 家康は紀州勢のほか、越中の佐々成政や四国の長曾我部元親にも使者を出し、秀吉打倒の計画に引き入れる説得を続けた。

 家康の依頼を受け、根来からも佐々成政や長曾我部元親に一味同心を呼びかえる書状が出された。
 秀吉に反発を感じていた、これらの勢力も反秀吉連合に加わることに同意した。秀吉包囲の網は次第に整ってきた。

                 ◇

 天正十一年(一五八三)の年末に、根来と雑賀を主力とする紀州勢は、ついに岸和田城への小規模な攻撃を開始した。

 秀吉を牽制すると同時に、諸国の大名に対し秀吉への抵抗を宣言するためである。篭城人数がつかめない岸和田城の兵力を探る意味もあった。

 岸和田城と根来の砦の間で小競り合いが始まった。まだ本格的な戦闘をする考えのない根来寺は、あらかじめ行人たちに深入りは避けるよう、申し渡していた。
 だが、いったん戦端がきられると、血気にはやる砦の若い行人や百姓たちを止めることは難しかった。
 小競り合いは中規模の戦闘となり、やがて数百人規模の戦いに拡大した。

 紀州勢は小部隊で積善寺、千石堀などの城から打って出て、岸和田の城下を襲った。
 岸和田方についた地侍の館に鉄砲を浴びせ、付近の家を焼き払うと、城から後詰(=応援)が来ないうちに砦に引き返す作戦をとった。

 これに対し、岸和田城の中村一氏は夜襲で反撃した。
 夜、少数の兵で紀州勢の砦や拠点の村落を襲い、根来に味方する村の家々に火を付け、村人を殺傷した。

 城方の反撃は海からも行われた。
 紀州勢の拠点「かわらや」(泉佐野市瓦屋町)では、地元の村人が守っている砦へ、海から舟で上陸した岸和田勢が夜討ちをかけ、十人の村民を殺した。
 敵は殺した村人の首を取っていったが、その中には幼児のものも含まれていた。
 憤った根来衆は、翌日、守りの手薄だった地侍の館を襲って火を懸け、地侍の妻子を殺した。

 村人たちが戦に加わるのは、この時代では、ごく当たり前のことである。
 石山本願寺と根来寺という二大宗教勢力に挟まれた和泉の地では、信仰は生活と一体であり、命をかけて守る対象だった。
 本山に危機が迫ると、信徒の百姓は武器を取って護法の戦に加わった。それは信徒としての責務であるとともに、先祖からの習わしでもあった。

  信徒は家族ぐるみで戦に参加した。
 男が鉄砲や弓で戦っている間、女は飯炊きや鉄砲の弾丸作りをし、子供達は走り使いや弾運びをした。彼らは、砦の上に「南無阿弥陀仏」の名号を書いた旗を立て、鍋釜を持ち込んで戦った。
 土地の地理に詳しい彼らは、よそから来た敵を背後から襲い、あるいは待ち伏せして、しばしば苦しめた。敵の城下に潜り込んで情報を送るのも、地元の人間の役割だった。

 常に社会の最下層に置かれ、荘園領主や地頭から搾取を受けてきた百姓や漁民にとって、既成秩序が崩れ、重しが取れた今こそ、自由を獲得する好機だった。
 領主の権力の及ばぬ寺内町はもとより、多くの村落で有力な自作農を中心に惣組織がつくられた。農民は集落の回りに堀を掘るなどして自衛した。

 彼らは、初めて領主の軛(くびき)から離され、自由に生きる喜びを知った。
 この自由な精神を理論的に裏付け、権力への抵抗精神を支えたのが新しい仏の教えである。

 一向宗は、凡愚で卑しい生まれの人間であっても、念仏の前には一切平等であり、誰もが救われると説いた。
 また、覚鑁(かくばん)の創始した新義真言宗は、念仏と密教を融合することによって、貴族仏教の真言宗を庶民の宗教に変えた。
 これらの教えは庶民に対し、生きる喜びと生きることの価値を教えた。
 人々は本山のためなら死も恐れず、むしろ仏のために死ぬことに感激して武器を取り、死地へ飛び込んだ。

 搾取から解放され、自由を得た彼らにとって、信長や秀吉は再び自分達を土に縛り付けようとする圧政者であり、侵略者だった。

 権力者の横暴や戦の巻き添えから信徒を守るのは、信徒に支えられてきた本願寺や根来寺の責務である。しかし、いまや本願寺顕如は雑賀を見捨てて秀吉と和を結んだ。和泉の百姓にとって頼れるのは根来の武力しかなかった。

 戦の経験の少ない百姓たちの目には、歴戦の荒々しい根来の行人たちが不動明王のようにたくましく、頼もしい存在に映った。

                            ◇

 紀州勢と岸和田側の衝突は年が押し詰まるに連れて、さらに頻繁になった。双方ともに兵を増やし、本格的な合戦に備えた。
 紀州勢は積善寺、千石堀のほかの諸城にも新たな兵を送り込み、鉄砲や弾薬の蓄えを増やした。粉河寺の行人も根来の応援に加わった。

 根来勢は杉の坊が指揮を取り、雑賀勢は土橋平之丞のほか、中村、木元といった土豪が率いた。
 紀州勢の和泉での総兵力は七千人に膨れ上がった。
 これに対し、岸和田城側は、中村一氏の手勢二千四百人に北和泉の地侍二千五百人、それに大坂から明石元知、黒田長政、宇喜多秀家らの兵が加わり、都合八千人の勢力になった。

 岸和田城にこれだけの人数が集まったのは、信長の雑賀攻め以来である。紀州勢の備えも、あの時とほぼ同じ形だった。ただ、当時と違うのは、貝塚願泉寺が中立の立場をとっていることである。

 信長の雑賀攻めの当時、願泉寺は紀州勢の重要な拠点だった。
 しかし、今回願泉寺は争いに与せず、固く門を閉ざして、火の粉が降り懸かるのを避けている。そして、岸和田、紀州の双方に使者を送って、寺への乱妨、狼藉を禁じるよう求めていた。

 願泉寺が離反したため、紀州勢は願泉寺に陣取りすることが出来ず、岸和田と戦をする上で不利な立場を強いられた。秀吉が本願寺を懐柔した効果は大きかった。砦を守る百姓たちは、常に願泉寺の方を恨めしげにながめて、不満を口にした。

 このころになると、不明だった敵の配置も漠然と分かってきた。相手のすきを突いて打撃を与えるための小競り合いは、さらに激しくなった。

 小規模な衝突を繰り返しながら、天正十一年は暮れ、十二年(一五八四)の初日(はつひ)が昇った。風もなく日の光も穏やかな元日だった。

 その日の朝から紀州勢は一斉に貝塚の砦を出撃、大挙して岸和田城下に押し寄せた。
 正月で紀州勢も動くまい、と油断していた城方の隙を突く奇襲攻撃だった。城内の正月気分は吹き飛んだ。

 紀州勢は岸和田城下に深く侵入し、周辺の城門で警備についていた兵を殺傷し、民家に火を放って引き上げた。
 城から出て紀州勢を追った中村一氏の兵に、待ち伏せしていた根来衆が鉄砲を撃ちかけ、城方の被害をさらに大きくした。

 三日には、逆に城方が貝塚に入り、根来の砦を攻めた。和泉の地侍、真鍋貞成らは、比較的手薄に見えた田中城を集中して攻撃した。城方の攻撃を予想して守りを固めていた根来側は激しく抵抗した。攻め手の松本三吉、遠藤喜内は討ち死にし、真鍋貞成自身も鉄砲で撃たれ、肩に負傷した。
 真鍋勢の攻撃は失敗に終わり、紀州勢の士気は上がった。

 勢いに乗る紀州勢は一月十六日、ゲジゲジ山に本陣をすえ、新たに応援に駆け付けた兵も合わせ、総勢八千人で岸和田城を攻めにかかった。
 しかし、今回は城方も十分準備を整えていた。
 城の各門から室田孫之丞を大将に六千人の軍勢が出陣、近木川を挟んで紀州勢と激しく戦った。

 近木川は川幅二十間ほどで、さほど広くはない。しかし、両側が険しい断崖になっているため、容易に渡ることができない。
 初めは双方とも川を隔てて鉄砲を撃ち合った。やがて城方の山神半太夫、寺田沙汰之助、田賀井左吉衛門らが浅瀬を渡って紀州勢に切り込んだ。
 双方が入り乱れる激しい戦となり、一時(いっとき=二時間)ほどの戦闘で、紀州側におよそ百人、城方にも五十人以上の死者が出た。
 年末からの攻め合いの中では、最も苛烈な戦闘だった。
 城方で、このとき活躍した寺田沙汰之助は、のちに加藤清正に臣従し、千石を取った。
 彼らと槍を合わせた根来衆も、幾多の戦いで功をあげ、寺からタイマイの槍をもらった豪の者ばかりだった。

 この時点では、紀州勢と城方の勝敗は互角だった。
 紀州勢、城方ともに、なお勢力を温存していた。

                             ◇

 岸和田で戦いが続いている頃、若左近と十郎太はまだ根来寺で鉄砲と槍の訓練を受けていた。
 成真院の行人も、すでに半数以上が泉州表に出ていってしまい、坊の中はひっそりしていた。

 鉄砲師範の小密茶はとうに出陣し、鉄砲の稽古は、別の小頭が指揮をとっている。
 同じころ行人になったものが、次々に出動していなくなると、自分達だけが取り残されているように思え、二人は焦りを感じた。

「こんな時に、いつまで稽古ばかりさせられているのか」
 伝えられる和泉での一進一退の戦況を聞くと、じっとしていられない気持ちになった。

 銃と槍の練習を終え、成真院に帰ったあと、二人は決意を固めて院主の部屋に行き、道誉に戦場行きを訴えた。
「我々も泉州表へ出していただきたい」

 思いつめた二人の顔を見て、槍の手入れをしていた道誉は手を止め、彼らを部屋に招き入れた。二人は思いを一気に話した。

 道誉は、腕組みしたまま、必死で訴える若左近らの話を黙って聞いていた。
「おまえたちの気持ちは、わからぬではないが、本当の戦はこれからだ。まだ、おぬしらが行く時ではない。もう少し待て」
 二人の話を聞いた道誉は静かに言った。
 すぐに願いが聞き入れられることを期待していた二人は、失望をあらわにした。
 道誉は自分の考えを話した。

 秀吉と家康は今、それぞれに味方を増やそうと、各地に檄を飛ばしている。しかし、諸国の大名たちは判断に迷い、情勢をうかがっている。
 信長子飼いの武将といえども、非力な信雄の側について織田家の長年の恩顧に応えようという気は毛頭ない。新参の西国の武士にいたってはなおさら、死んだ信長への義理立ては無用である。
 しかし、秀吉につくことにも、ためらいがある。

 明智光秀、柴田勝家を滅ぼして実力を示した秀吉とはいえ、まだまだ強敵は残っている。長曽我部、佐々などは従う気配を全く見せていない。
 これらの武将の帰趨がはっきりしない限りは、秀吉と家康の双方ともうかつには動きだせない。根来、雑賀としても、これら諸大名の動向を見ないうちに、本格的に岸和田に攻撃をかけるのは、勇み足になる恐れがある。

「秀吉が、家康との戦いの前に、まず紀州を攻めるということも十分ありうる。秀吉の意図が明らかになるのは、春になってからだろう。それまでは、兵力を温存し、消耗を避けねばならぬ。秀吉が動き出したとき、その時がおぬしらの出番である。焦ることはない」
 道誉はそう話すと、立ち上がった。

 道誉は「伝法堂で打ち合わせがある」といって、二人を残したまま、出ていった。

 若左近と十郎太の二人も外に出た。
 割り切れぬ思いではあったが、道誉にそう言われては、今回は出陣を諦め、その日を待つしか無かった。