「父上は、ご自分の身命を惜しんで、石山を離れたわけではありません。自らがいなくなれば、開祖親鸞上人以来、続いてきた一向宗の法脈が絶えることを心配され、涙を飲んで和議に応じられた。そう、私は信じています。本願寺のために、尊い命を捧げてくれた門徒のことを、われわれのだれが忘れることが出来ましょう。大勢の門徒を失った父上の悲しみは、察するに余りあります。それをなぜ、兄者は分かろうとしないのです」
 准如は、怒ったようにいって、それっきり口を聞かなかった。どう兄を説得すればいいのか、途方にくれているようにも見えた。

 教如は立ち上がった。
《もう、何をいっても仕方がない》
かみ合わない論議の空しさだけが残った。
《准如とおれとは、考え方が全く違う。奴は争いを嫌い、俺は争いを避けぬ。もって生まれた性質が正反対なのだ。しかし、これからは争いを好まぬ人間の時代かもしれぬ。仏の徒が戦をする時代は、もはや終わったのではないのか》
 教如は自分が時代から取り残されてしまったような、寂しさを感じた。

 教如は立ち上がり、黙ってしまった准如を置いたまま、部屋を出ていった。
               
              貝塚の海

 貝塚願泉寺の鐘楼からは、大坂の海が一望のもとに見える。住職の卜半斎了珍は、この鐘楼の上に立って海を眺めるのが好きだった。

 夏の間は、裸の子供達が大声をあげて波とたわむれ、はしゃいでいた海も、いまは人影もなく、土用過ぎの荒い波が打ち寄せている。
 暑さの盛りは過ぎたとはいえ、残暑の日差しはなお強かった。
 砂浜に打ち上げられ、干からびた魚を、烏の群れが争いながら、ついばんでいる。
 漁師の舟は沖に出て、浜に舟は見当たらなかった。砂浜に干された網が潮風に揺れている。打ち上げられ、砂に埋まった海草が風になびいている。
 のどかな海岸風景だった。

 青く広がる大坂湾を眼下に見ながら、了珍はつい二、三日前に、やってきた雑賀からの使者の言葉を思い出していた。

「顕如さまは、なぜ会ってくださらないのです。会って是非お願いしたいことがあるのです」
 雑賀の有力者、土橋家の使者は、応対に出た了珍に泣きつくようにいった。
「門主さまは、いま御不例で、伏せっておられます。申し訳ありませぬが、どなたさまにもお会いすることは叶いませぬ」
 了珍は、気の毒そうに答えた。

 だが、これは、全くの偽りだった。門主顕如は相変わらず気力に満ちていた。いまも朝の勤行のあと、書院で各地の門徒あての書状を精力的に書いている。

 雑賀の使者の用件は分かっていた。秀吉との戦が、もはや避けがたいと判断し、本願寺の加勢を求めてきたのだ。

 だが、本願寺が雑賀に加担しないことは、門主顕如と了珍の間では既定の方針だった。雑賀から依頼の使者が来ても顕如には会わせないことも、あらかじめ顕如と了珍の間で、申し合わせていた。

「門主さまに、お会いできないのでしたら、ご長男の教如さまに会わせていただきたい」
「教如さまは、大坂へお出掛けになられ、お留守でございます」
「いったい、何のご用事で大坂へ参られたのでしょうか」
 雑賀の使者は、あきらめず食い下がった。
 三十五、六の、常に舟に乗っていると見え、よく日に焼けた、頑丈そうな男だった。そばで、供をしてきた下男が、やりとりを心配そうに聞いている。

「理由を私は知りませぬ。たとえ知っていたとしても、それは御辺らには関係ないこと。申し上げるわけには参りませぬ」
「なぜ、そのように隠されるのです。ひょっとすると、大坂城に行かれたのではありませぬか」
「用件は知らない、と申し上げている通りです」
 了珍は、そっけなく答えた。

「世間の噂では、本願寺は我々を見捨てられるのではないか、といわれています。門主さまは、この頃は秀吉と昵懇(じっこん)にされ、大坂へしばしば使者を送られているとも聞きます。信長と果敢に戦って来られた門主さまを知っている我々には、にわかに信じがたいことですが、最近の門主さまの冷たいお振る舞いをみていますと、まったくの作り話とも思えないのです。一体、この話は本当なのでしょうか。門主さまが我々に会いたくないと思われているのであれば、どうぞはっきりと、そのようにお答えください」
 恨めしげに了珍をにらんで、使者はいった。

「そんなことは決してありませぬ。間違いなく顕如さまはご病気であり、教如さまは、お留守です。私を信じて下さい。顕如さまも教如さまも、雑賀の人たちの事を、とても気にかけておられます。どんなことがあってもあなた方を見捨てるようなことはありませぬ。それだけは確かです。ご安心下さい」
 自分の言葉のそらぞらしさを、意識しながら、了珍はいった。
「わかりました。それでは残念ですが、きょうのところは引き上げます。また日を改めて参りますので、門主さまにくれぐれもよろしく、お伝えください」
 雑賀の使者は、役目を果たせず、気落ちした表情で、帰っていった。
 
 ゆるやかな弧を描く海岸線を取り巻くように並ぶ民家の甍(いらか)を、鐘楼の上から見ながら了珍は思う。
《もう二度と、この貝塚を焼け野原にさせてはならぬ。この寺、この町をまた灰にしてしまうようなことになれば、自分はいったい何のために生きてきたのか。苦労した一生が無駄になってしまう》

 了珍は、二十歳で貝塚へ来てから、これまで四十年間の様々な出来事を思い、時の移り変わりの激しさを改めて感じた。

 了珍が、天文十四年(一五四五)に貝塚へ初めて来たころ、貝塚は白砂青松の美しい松原の中にあった。民家が三、四十戸ほど固まっただけの小さな漁村だった。
 村人は貧しく、家はみすぼらしかった。集落の中心にある小さな寺だけが、唯一の瓦葺きの家だった。瓦葺きとはいっても、本堂は相当古く、ところどころで雨漏りがしていた。ここでは、講と呼ばれる集落の寄り合いが、時たま行われていた。

 この寺は奈良時代に行基が開いたといわれる。応仁年間(一四六七〜一四六九)に、一向宗の布教に各地を歩いていた蓮如上人が、紀州巡錫の途中で立ち寄り、初めて一向宗の教えを説いた。それ以降、この地方の一向宗の布教の拠点となった。

 天文年間、この寺には久しく住僧がいなかった。そこで門徒が相談して、この一帯を勢力圏に置いていた根来寺から、住持を迎えることになった。
 こうして着任したのが、当時、根来寺で右京坊了珍と名乗っていた卜半斎了珍だった。

 一向宗の寺でありながら、新義真言宗の根来から住持が来るのは、本来不自然なことである。実をいえば、これは、当時の本願寺と根来寺の利害にからむ妥協の産物だった。

 当然のことながら、一向宗徒である貝塚の町衆たちは最初、大坂の本願寺に住職の派遣を頼んだ。だが、本願寺は、なかなか色よい返事をくれなかった。
 彼らが住持を欲しがったのは、単に寺の管理や葬式のためだけではない。本当の狙いは、本願寺から僧を派遣してもらうのと同時に、本願寺の寺内町に取り立ててもらうことにあった。

 当時、本願寺は守護大名と対抗できる大勢力であり、本願寺から認められた寺内町は、守護権力の介入を許さぬ独立した存在であった。
 集落全体が寺内に取り立てられれば、領主に対する年貢は払わなくてもよくなる。
 もちろん、年貢の代わりに、本山には志納金を納めねばならない。しかしこれは、年貢に比べればはるかに少ない負担だった。また、年貢やその他の租税がなくなれば、諸国から人が集まり、寺内は繁栄する。

 寺内町は、守護大名や法華宗徒ら他の宗派の攻撃に備えて、自衛のための堀をめぐらし、一種の城のような外観を備えていた。四方には見張りのための櫓が設けられ、番屋には武器を持った門徒が交代で詰めた。

 寺内町に住む人々は、僧侶も、門徒の民衆もみな一体、平等であり、等しく弥陀の光明を受ける同行(どうぎょう)だった。

「同一念仏、別道なき故なれば、同行はたがひに(互いに)四海のうちみな兄弟のむつび(睦み)をなす」(覚如上人)
 彼らは彼岸会や盆などさまざまな宗教行事を通じて結束し、平等で自由な生活を享受した。

 本願寺教団の方にとっても、寺内町は大きな利益をもたらした。個別の信者から寄付を集めるより、こうした豊かな地域を支配下に置いて志納金を受ける方が利益が大きい。そこで積極的に寺内町をつくる政策をとった。

 当時の一向宗の寺内町は全国にあったが、その代表は本願寺のある大坂石山や河内の富田林などである。

 貝塚の町衆が、望んだのも、こうした寺内町だった。
 寺内町を積極的に造ろうとしていた本願寺が、貝塚の申し出にすぐに応じなかった背景には、泉州の特殊な事情があった。当時、貝塚を含む泉州一円は根来寺の勢力圏であり、本願寺としても、根来寺を無視して貝塚を寺内町に取り立てることは難しかった。

 しかし、貝塚の人々の熱意は強かった。彼らは大坂の本願寺に日参して寺内町への取り立てを願った。根負けした本願寺は根来寺と協議し、根来寺から住職を迎えるという条件のもとで、貝塚を寺内町に取り立てることについて、根来寺の了解を取り付けた。

 本願寺の申し出に応じたのは、根来寺側にも理由があった。
 当時、岸和田城には、三好一族の十合一存が在城していた。
 三好一族は、根来寺と泉州での領地をめぐって敵対しており、根来寺にとっては不倶戴天の敵である。根来寺は三好勢との対抗上、岸和田を臨む地に拠点を確保する必要があった。

 岸和田とは指呼の間にある貝塚は、その点、絶好の土地であり、ここに根来寺出身の住職を置く意味は大きかった。泉州の知行を管理するにも好都合であり、本願寺との友好関係を保つ必要もある。様々な損得を考えると、これは、決して悪い話ではなかった。

 了珍が、宗旨の全く違う寺に来た背景には、根来と本願寺との間の、こうした関係があった。現世利益を重んじる世俗の人々にとって、一向宗と新義真言宗との教義の違いなどは、この際、たいした問題ではなかった。

 了珍は貴族の出身だった。大永六年(一五二六)、日野大納言藤原内前の次男として生まれた。幼名は菊丸という。
 大永七年、細川氏の内紛により細川晴元と細川高国が争った洛西川勝寺の戦いで、父藤原内前が戦死した。菊丸は従臣に伴われて和泉の国日根郡に逃れた。そこで三郎右衛門という百姓に預けられ、養子として育てられた。
 享禄四年(一五三一)、六歳の時に根来寺福永院に入って出家し、右京坊と名乗った。

 了珍は幼いころより聡明だった。成長するに従って、その学識はますます深まり、その高貴な血筋とあいまって、人々から敬まわれた。
 貝塚の村人が招いたのも、その血筋を重んじたからである。下克上の風潮が広がっていた当時にあっても、貴種を尊重する気持ちは庶民の間に根強かった。

 村人の期待は裏切られなかった。了珍は縁を頼って貴族から寄進を集め、崩れかけていた草庵を新しい堂に立て替えた。了珍自身も一向宗に宗旨替えし、熱心に布教して信者を増やした。天文二十四年(一五五五)には、本願寺の前法主、証如上人から弥陀の絵像の下付を受けるまでになった。

               ◇

 了珍の前半生は、願泉寺、貝塚の町の興隆とともにあった。それだけに、その後、手塩にかけた寺と町を戦火に焼かれたことは、了珍にとって痛恨の出来事だった。

 繁栄するかに見えた貝塚の町と願泉寺は、天正五年(一五七七)二月、信長の攻撃に遭い、ことごとく灰になった。

 長年攻め続けながら、一向に石山本願寺を攻略できないことに業を煮やした信長はこの年、本願寺を後方から支援する雑賀を討つため紀州に遠征した。
 その途中、本願寺の拠点である貝塚を襲い寺と町を焼き払った。

 卜半斎は七年後の今も、あのときの惨状を忘れることができない。
 二月十三日、信長は京都を出発、十六日には和泉香ノ庄(岸和田市)に陣取った。雑賀の一向宗門徒らは、近木川ぞいの砦に立て篭もって、信長軍に抵抗しようとした。貝塚願泉寺にも、一向宗の信徒が鉄砲や刀を手に各地から集まってきた。
 しかし、織田軍の装備と訓練は、もとより百姓軍の比ではなかった。

 二月十六日夜、織田軍来襲に備えて砦にこもっていた雑賀の門徒たちは、信長勢の勢いに恐れおののき、舟に乗って逃亡した。
 信長軍の先陣、織田信忠は鉄砲を持った門徒が砦から逃亡したのを知って、防備の薄い貝塚に攻め寄せてきた。

 寺の中は、大勢の百姓たちでごったがえしていた。
 信忠の軍が近付き、砦の門徒が逃げたとの知らせが伝わると、それまで決戦の覚悟を固めていたはずの群衆が浮足立ち、我先に逃げ出し始めた。

 寺の中にいた了珍も恐怖に襲われ、逃げたい誘惑に駆られた。
 しかし、彼は動かなかった。苦労して築き上げた寺を捨てるのは忍び難かった。了珍はその場に残り、寺の最後を見届けようとした。

 町衆は、動こうとしない了珍に一緒に逃げるように懇願した。
 最初のうちは、がんとして聞かなかった了珍も、必死でかきくどく町衆に最後は折れた。
 了珍は町衆が用意し、浜に待たせてあった舟に乗った。彼らが沖へ漕ぎ出したのと、浜辺に織田軍の足軽たちが殺到してきたのは、ほぼ同時だった。

 間一髪で危機を脱した了珍は、舟の中から、炎上する貝塚の町を見た。
 二十歳のときから、苦労して築きあげた願泉寺は、火の粉を吹き上げて闇の中で苦悶していた。了珍は目を背け、涙を流した。

 信忠軍は、民家をすべて焼き払い、逃げ遅れた二、三百人の首をとった。

 雑賀に逃げたあと、しばらくの間、了珍はふぬけのようになり、何をする気にもならなかった。自殺を考えたことさえあった。だが、一緒に逃げてきた町衆に励まされ、思いとどまった。

 信長の雑賀攻めは行き詰まり、やがて信長と雑賀衆との和解がなった。同時に貝塚に平和が戻った。
 了珍は町衆を励まし、自ら陣頭に立って町と寺の再建にあたった。焼け落ちた土を掘り起こし、埋もれた柱や瓦を取り除いて運び出した。涙の出るような苦しい作業だった。
 だが、その努力は報われ、貝塚の寺内は見事に復興した。そして、再建した新しい本堂の板屋道場は、いまや法主顕如を迎えて、栄えある本願寺となり、貝塚も門前町として繁栄している。

 どんなことがあっても、今度こそは寺を守る。そう決心している了珍にとって、秀吉との敵対を強めている雑賀は、甚だ迷惑な存在だった。
 いまは、鳴りをひそめていなければならない非常に危険な時である。それなのに雑賀は秀吉に反抗している。
 雑賀は秀吉に領地を奪われる不安から、同じ危惧を抱く根来寺と結託し、本願寺を再び戦に引きずり込もうとしている。本願寺は決して、この誘いに乗ってはならない。

 この思いは門主顕如もまた同じだった。
 宗門を守るためには、いまここで秀吉と事を構えることは絶対に避けねばならない。この点で、了珍と顕如の考えは完全に一致していた。

 これに対し、雑賀の権力への反抗心は強かった。
 舟と鉄砲を武器に、自由と繁栄を謳歌していた雑賀衆にとって、秀吉の支配下に組み込まれることは束縛と隷属を意味する。これは独立心の強い彼らには、とても耐えられないことだった。雑賀衆は、強圧的な秀吉に敵愾心(てきがいしん)を燃やした。
 世俗に屈し、抵抗の意志を失った本願寺と、あくまで自由と既得権益を守ろうとする雑賀衆の利害は、ここで全く食い違った。

 顕如が秀吉の勧めを受け入れ、紀州鷺の森を去って貝塚に移ろうとしたとき、雑賀衆は、顕如に出立を思いとどまるよう懇願した。雑賀衆は本願寺が、紀州に残って後ろ盾になってくれることを期待していた。
 だが、顕如は「秀吉は信長とは異なり、仏道に理解がある」といって彼らの願いを聞き入れなかった。
 顕如は紀州を去った。

 長年、本願寺のために犠牲を払って戦った雑賀衆にとって、秀吉との抗争を避け、雑賀と離れようとする顕如の態度は、身勝手な裏切りと映った。
 法主への遠慮から、正面きって本願寺に怒りをぶつけられない土橋平之丞ら雑賀の指導者たちは、卜半斎了珍ら、顕如の周囲にその憎しみをぶつけた。

              ◇

 顕如が鷺の森を引き払い、貝塚に移ったのは、了珍が秀吉の意を受けて、裏で工作したからに違いない。彼らはそう考え、卜半斎を敵視した。最近では、雑賀衆の中で、卜半斎の命を狙っているものがいるという噂さえ流れている。了珍は、もちろん、そのことも知っていた。

「いまにいたりて、たれか百年の形体をたもつべきや。われやさき、ひとやさき、けふ(今日)ともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もと(元)のしづく(雫)、すゑ(末)の露よりも繁(しげ)しといへり。されば、朝には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」

「すでに無常の風きたりぬれば、すなはち二つのまなこ(眼)たちまちにとぢ(閉じ)、一つのいき(息)、ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひ(装い)うしなひぬるときは、六親眷族(けんぞく=親族)あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず」
 

(いままで誰が生きて百年の形を保っただろうか。自分が先か他人が先か、今日か明日かも知らず、遅れて死ぬ人、先立って死ぬ人は、草の根元のしずく、草の葉先の露よりも多い。だから、朝には紅顔の若者も、夕べには白骨となる身である。もはや無常の風が吹いてくると、たちまち両眼は閉じ、息が永遠に絶えてしまう。紅顔がむなしく色あせ、桃やすももの華やかな色が失われるときは、親族が集まって嘆き悲しんでも、よみがえることは決してない)

 常に口にし耳に親しい、蓮如上人の白骨の御文の一節を唱えながら、了珍は鐘楼から夕日に向って手を合わせる。
 一度は寺とともに焼け死のうと考えた身にとって、命を奪われること自体は、さほど恐ろしいことではなかった。そんなことより、彼にとっては、貝塚の寺と町の方がよほど大事だった。

 了珍は、雑賀の門徒に恩義を受けた教如が雑賀衆に負い目を感じているのを知っていた。そして、教如が追い詰められている雑賀に救いの手を差し延べて加勢するのではないかと案じていた。だが、その心配もどうやら、杞憂に終わりそうだった。

 常に過激だった教如もまた、年をとったのだ。
 だれも理想をいつまでも追い続けることは出来ない。みんな、いつかは現実に流される。
 そう、了珍はつくづく思う。

 しみが浮き、たるみの見え始めたほおに手をやりながら、了珍は海を見た。沖には、岸和田の方へ向かう真鍋勢の軍船が、貝塚にある紀州側の砦を威嚇するかのようにゆっくりと遠ざかっていくのが見える。

 戦になれば、あの船は沖から攻めるだろう。周りに堀をめぐらし、陸からの攻撃には備えてある砦も、海と陸の双方から攻撃されれば、長くはもたない。
 寺は争いに関わるべきではない。もともと、寺は祈るためのもの。戦のためのものでは決してない。

 了珍は自分の考えに自信を持っていた。宗門と信者を守るためには、世俗との妥協もまた、やむを得ない。
 純粋なだけでは、世の中は渡ってはいけない。それは、僧職者にとっても同じである。現世の人間を救済する以上、現世のしがらみから離れることは出来ない。

「我が身はあさましき、罪深き身ぞと思ひて、弥陀如来を一心一向に頼みたてまつりて、もろもろの雑行を捨てて、専修専念なれば、かならず、遍照の光明のなかに、をさめ(収め)とられ、まゐらするなり」

(自分は浅ましい罪深い身だと思って、阿弥陀如来を一心にお頼みし、さまざまな雑事を捨てて、もっぱら念仏を唱えれば、必ず、あまねく隅々まで照らす仏の光の中に、すくいとってもらえることだろう)

 了珍は、再び蓮如の言葉を唱えて、手を合わせ、浜を見た。
 魚の死体を求めて、激しく争っていた烏の群れは、いつのまにかいなくなっていた。