天正八年(一五八〇)八月、石山を落ちた二十一歳の教如は、大和、近江、北陸、安芸を転々とした。
顕如が信長に屈服した後もなお、各地で続いていた信徒たちの抵抗は、信長の弾圧で次々につぶされた。
加賀では、同年四月末に尾山御坊(金沢御堂)が柴田勝家に攻められて陥落した。最後まで戦った白山麓の山内衆も天正十年までに平定され、多くの信徒がはりつけにされた。
本願寺と同盟関係を結んでいた甲斐の武田勝頼は、天正十年三月、信長の長子信忠に攻められ、田野の地で自刃して果てた。
西国の毛利も自らを守るのに精一杯で、とても本願寺を支援する余力はなかった。
このような情勢のもと、かつて本願寺に忠誠を誓った各地の土豪たちも、信長の威勢を恐れ、徐々に本願寺と距離を置くようになった。
教如は行く先々で、露骨に厄介者扱いされた。逗留を断られるか、運よく受け入れられても、すぐに出立を迫られた。
天正十年(一五八二)六月、本能寺で信長は横死したが、秀吉が実権を握り、本願寺の力は元に戻らなかった。行き詰った教如は、ついに母の如春尼を通じて顕如に詫びを入れた。
顕如は、自分に逆らった教如を恨み、許そうとしなかった。しかし、朝廷が調停に入り、教如は前非を悔いる誓紙を出すことで義絶を解かれた。
「今度の始末、いたずら者の申す成(=いうままに)、同心(=同調)せしむること、後悔千万千万、今よりあとは、湯にも水にも、御所様(=顕如)御おきての次第たるべし。北御方様(=如春尼)の儀も同前、毛頭私曲表裏、これあるべからず候…」
(このたびの顛末は、不心得者のいうことに乗せられ、同調したことで、深く後悔しています。今後は教主さまが決められたことを守ります。北の方さまについても同様です。表裏のある、よこしまなことは決していたしません)
教如は自分が、一部の過激集団に乗せられていた、という言い訳をして、顕如に全面的に頭を下げた。
あの時のことを思い出すだけでも、教如の顔は恥ずかしさで歪んだ。
あれほど屈辱的な屈服、同志への卑劣な裏切りがあろうか。
自分はむしろ潔く、焼け落ちる石山の寺とともに死ぬべきだった。それを、信徒に責任をかぶせて一人だけ裏切ったのだ。
そしていまは危機が迫る雑賀を離れ、安全な貝塚に逃れている。
自分を支えた雑賀衆たちが、権力者への抵抗を貫いて、いままさに破滅に瀕しているというときに。
廊下を急ぎ足で歩きながら、教如は苛立っていた。思い出せば思い出すほど、たまらなく自己嫌悪に駆られた。
教如は、この五年間の放浪の中で、世俗の力をいやというほど知った。本願寺とおのれの非力も痛感した。
世の中は、やはり武力がものをいう。所詮、我々は戦の素人に過ぎず、殺生を生業とする武士たちの相手ではない。
教如は、父の権力への屈服を自分が否定しながら、結局は自分も屈従したことを恥じた。
教如にとって、自分達を支えてくれた民衆を見捨てた後ろめたさを克服する道は、過去を完全に否定することしか無かった。
結局、どうあがいても武士には逆らえぬ。どうせ、逆らえないのなら、せいぜい利用してやろう。そんな居直りの気持ちが生まれた。
大名たちの力を教如は知っていた。かつて本願寺を支援した毛利は秀吉に懐柔され、もはや頼むに足りない。
東国の家康の実力は教如も大いに評価していたが、それとて秀吉に対抗できるほどとは思えなかった。
あれこれ考えれば、天下を取ることが出来そうな人間は、いまのところ秀吉しか見当たらなかった。教如は積極的に秀吉に近付こうとした。
秀吉は、過去のいきさつには表向き、あまりこだわっていないようだった。
父の名代として大坂城へ出向いたときも、秀吉はいたって機嫌がよかった。秀吉は顕如からの進物の布地を目の前で開け、女房衆にも見せて喜んだ後、かしこまる教如に「貝塚の地では狭かろう。世の中が静かになれば、大坂に土地を探してやろう」といった。
教如は平伏して「ありがたき幸せにございます」と礼を述べた。
「次の法主さま」と生まれながらに人に崇められ、何不自由なく育った教如は、これまで人に頭を下げることを知らなかった。
これまでは自分の意志を通すことばかり考えていた。だが、いま百姓あがりの貧相な秀吉を前に、頭を垂れて恭順の意を示している自分の姿に、自らがいかに世間知らずだったかを思い知った。
教如は、なにゆえ世間の多くの人々が、自分の意志を押し殺し、卑屈なまでに力を持つ者に従うのか、初めて理解できた。
権力を持った者に反抗すれば、不利益や迫害が待っている。最悪の場合は、死や追放さえありうる。
権力者の意のままになれば、栄華や物質的な利益が与えられる。人間にとって、これほど損得の明確な、たやすい選択はない。
大部分の人間は栄華や立身出世を望み、また、それ以上に転落や蔑み、貧窮を恐れて権力者に頭を垂れる。
権力者が生きているうち、あるいは権力を握っているうちは、節を曲げて阿諛(あゆ)追従する。
権力者に迎合し、権力者の意を汲んで露払いをする。
権力者に反抗するものを、口を合わせて批判し落としめる。
孤立を恐れず、直言できるのは、他人に頼らず自分一人で生きる力があるか、もしくは自らの誇りと信念に殉じることの出来る人間だけである。彼らは卑屈に生きることを拒み、自らの命さえも捨てる。
しかし、大方の人間は、ただ己れと家族の露命をつなぐために、この世に生きている。彼らが生き残るために権力者にはいつくばり、節を曲げたとしても、それはだれにもとがめることは出来ない。
教如は宗祖親鸞上人がいった「凡夫」という言葉の真の意味が、ようやく解ったように思う。
多くの人間が、権力者にこびへつらう一方、権力者が死んだり、失脚すると、たちまち態度を翻し、悪し様に罵る。これもまた不思議なことではない。
なぜなら、彼らが頭を下げているのは権力に対してであり、その人間ではないからだ。
元弘の昔、新田義貞の攻撃で鎌倉が陥落した際、北条家累代恩顧の武士たちがとった卑怯な振る舞いが「太平記」に書かれているのを教如は知っている。
「島津(四郎)、門前よりこの馬(=北条高時にもらった名馬白浪)にひたと打ち乗って、由比の浜の浦風に濃き紅の大笠印を吹きそらさせ、(中略)、あたりを払うて(=堂々と)馳せ向ひければ、数多(あまた)の軍勢これを見て、まことに一騎当千の兵(つわもの)なり。この間(=これまで)執事の重恩を与えて(=幕府長官長崎氏が重用して)傍若無人の振舞ひせられたるも理(ことわり=理由がある)かなと、思はぬ人はなし。(中略)かかるところに島津馬より飛んで降り、兜を脱いでしづしづと身繕いをする程に、何とするぞと見居たれば(=見守っていると)、おめおめと降参して、義貞(=新田)の勢にぞ加わりける。貴賎上下これを見て、誉めつる言(ことば)を翻して、にくまぬ者もなかりけり(中略)これを降人の始めとして、あるいは年ごろ重恩の郎従、あるいは累代奉公の家人(けにん=家来)ども、主を捨てて敵に付き、目も当てられざる有様なり」
(島津は北条高時の屋敷の門前から、高時にもらった馬にさっと乗って、油井の浜の浦風に真紅の兜じるしを吹き流し、あたりを払うように堂々と敵に向かった。多くの味方の軍勢はこれを見て、これぞ一騎当千のつわものだ。これまで、幕府長官の長崎氏が重用して、島津が傍若無人の振る舞いをしたのも理由があった、と思わない人はなかった。そのうち、島津が馬から飛び降り、兜を脱いで、静かに身づくろいを始めた。何をするのだろうと、人々が見ていると、おめおめと降参して、新田義貞の軍勢に加わった。貴人も賎しい人も、位の高い人も低い人も、これを見て、先ほどほめた言葉をくつがえし、憎まない人はなかった。これを降参人の初めとして、長年北条氏の恩を受けた郎党や代々仕えた家来たちが、主人を見捨てて敵に付き、目もあてられない有様だった)
忠誠を誓った武士も、主が権力を失い、敵に権力が移った途端に主人を見限り、なりふりかまわず敵に追随する。まことに権力の威光は大きい。
その強大な世俗権力である大名に、これまで本願寺が立ち向かうことが出来たのは、門徒の宗教的な熱情があったからだ。自由と平等を求める門徒の結集があったからこそ、寺を守ることができたのである。
《仏の前には、すべての人間が平等であり、同行同朋である。浄土に行くには、難しい修業や戒律、学問は必要でない。たとえ、悪行を行ったものでも、肉食妻帯している凡夫であっても、ただ、弥陀の本願にすがり、弥陀に対する信の一念を発起するだけで救われ、極楽浄土に再生できる》
親鸞のこの教えは、どれだけ人々を勇気づけたことか。
とりわけ、社会の底辺に生きていた人々の受けた感激は大きかった。殺生を生業とする猟師や漁民、また、貧しい職人たちは、教えに随喜の涙をこぼし、次々に一向宗に改宗した。
彼らは極楽浄土を約束されたことへの報謝に、日々念仏を唱え、道場で法話を聴聞して信仰を固めた。
武士たちと本願寺との争いが始まると、彼らは「進む者は往生極楽、退く者は無間地獄」の呼び掛けに鼓舞され、欣喜雀躍して死地に飛び込んだ。
死を恐れぬものには現世の権力はなんら威嚇力を持たない。一向宗は彼らに死を乗り越える力を与えた。
もちろん、彼らを戦に駆り立てたのは、精神的な動機ばかりではなかった。信徒間の自由な取引が認められた寺内町では、商人は寺への志納金を払うだけで制約なく商売が出来た。本願寺の支配下に入った農村では、領主の年貢が免ぜられた。彼らの死に物狂いの戦いは、これらの権益を守るためでもあった。
◇
応仁の乱以来の混乱で、将軍家はじめ幕府の要職を占める管領や名門の守護大名はその権威と権力を失った。もはや、世を統制する権力者はいなくなった。
彼らは没落し、新興の地方武士から成り上がった戦国大名が力を得た。細川氏が内部抗争で衰え、家臣の三好氏が台頭した。近江でも同族佐々木六角氏との抗争で消耗した佐々木京極氏は衰え、家臣の浅井氏が表向き、主君の京極氏を立てながら、実権を奪った。
しかし、新しい権力者も、その力が固まらぬうちに、すぐ別の成り上がり者に倒された。美濃の斎藤氏に対抗するため、織田信長と盟約を結んだ浅井氏は、その後の時勢の帰趨を見誤り、信長に滅ぼされることになる。
世の乱れに乗じて、一向宗信徒たちは自己を主張し始めた。各地で守護に逆らい、自治を勝ち取った。
長享二年(一四八八)には、ついに加賀の守護冨樫氏を倒し、以後約九十年、自分達の国を持つことに成功した。
しかし、いったんは分散した権力も、時がたてば、必ず収斂(しゅうれん)する。人間が集団的に生きる動物である以上、権力は集中するものなのだ。
足利将軍家の衰退とともに、分裂を繰り返し弱くなっていた権力は、長い戦乱の時代を経て再び収斂に向かっていた。それは信長を経て、いまや秀吉に集中しつつある。鉄砲の威力がその動きを加速した。
いったん集中を始めた権力の流れに逆らうことは不可能であり、多くは自滅に終わる。
すでに、信長との戦いで、父顕如はそれに気付いていたのだろう。教如は、顕如が石山を退去する際に、信徒たちを集めていった言葉をいまも覚えている。
《人としての道、仏の前の平等を守ることは望ましいが、それも命あってのこと。われわれが信長に勝てる見込みはなくなった。ここはひとまず屈するしかない。おのれの理想と節に殉じて死ぬのは美しいが、泥にまみれても、生きる方が仏の教えにかなっている》
こう、顕如はいった。
教如は当時、その言葉に反発したが、いまから考えれば、確かに現実的な考えではあった。教如はいま、不本意ながら、その正しさを認めざるを得なかった。
考えてみれば、各地で一揆を起こした一向宗も、つねに大名に敵対してきたわけではない。
権力者に敵対したのは、収奪に反発する信徒であって、本願寺はむしろ世俗の権力に妥協的だった。
一向宗を広め、一揆に立ち上がる人々に精神的支柱を与えた宗門中興の祖、蓮如もまた、一方では足利将軍や大名などの世俗権力の庇護を仰ぎ、近付こうとした。
冨樫氏を倒した長享の一揆の際は、蓮如は「お叱りの御書」を出して、門徒をたしなめる一方、管領の細川政元を利用して将軍足利義尚の怒りをかわした。
蓮如は、その文章の中でしばしば「守護、地頭を粗略にするな」と門徒を戒めている。
蓮如以後の法主も、大名との縁戚関係を積極的に広げ、世俗権力と結んだ。
《権威に対して戦ったのは、信徒であって本願寺ではない。本願寺の法主は、昔から世俗の権力に頼ってきたのだ》
そう教如は思う。
《父顕如もまた、その伝統を守っているに過ぎない。おれもその血筋を継いでいる以上、同じ事をせざるを得ないのかも知れぬ。貧しい門徒のために戦うことなど、ぬくぬくと育った我らにできるわけはないのだ》
教如の顔は強ばっていた。
◇
教如は、渡り廊下を通って離れへと向かった。そこには、やはり朝の勤行を終えた弟の准如が戻っているはずであった。
准如は、文机(ふづくえ)に経を開いて読んでいた。教如が入っていくと、准如は視線をあげて会釈した。
異母弟の准如は、気性の荒い兄と違い、子供のころから学問を好み、争いを嫌った。
親の言い付けもよく守り、年長の信徒たちにもかわいがられていた。教如には、そんな弟が羨ましくも、また腹立たしくも思えた。
准如に物心がついたときは、本願寺はすでに信長との争いの最中だった。
戦の中で育った准如は、戦を憎むようになった。顕如が石山退去に同意したときも、最も喜んだのは准如だった。
「准如、おまえは、よくそんなに落ち着いていられるな。秀吉は紀州勢を滅ぼそうとしているのだぞ。心配ではないのか」
教如は、准如の横にあぐらをかいて座ると、幾分挑発的にいった。
「門徒たちが、滅亡の危機に瀕しているというのに、われわれは何もしようとはしない。かつては、《本願寺のために戦えば、極楽浄土行きは疑いなし》とさんざん彼らを煽り、戦に駆り立てておきながら、彼らが苦しんでいるときは知らぬ顔でいる。あまりにも無責任ではないか。父上も冷たいが、おまえも何とも感じぬのか」
「父上のことを、そのようにあしざまに言われるのは、よくありません」
経を片付けながら、准如は静かに答えた。
兄の挑発には乗らず、准如は冷静だった。
そもそも教如は准如が声を荒立てたのを見たことがなかった。
「父上も苦しんでおられます。生死をともにした紀州の人々を、どうして見捨てることが出来ましょう。父上は、秀吉公と紀州との争いが、なんとか避けられるようにと、心を砕いておられるのです。『朝の勤行でも、祈るは和平のことばかりじゃ』と今朝も話されておりました」
「雑賀を捨てたことで、気がとがめておられるのだろうが、そんなことを祈っても、彼らを助けるためには何の足しにもならぬ。父上は、本願寺が争いに巻き込まれぬようにと祈っているだけではないのか」
教如は冷ややかに言った。
「それは違います」
「何が違う。現に雑賀からの救援の求めにも、父上は知らぬ顔ではないか」
「それは父上が門徒衆を戦から守りたいからです。本願寺が雑賀に味方すれば、門徒全体がまた戦に巻き込まれてしまうことを恐れられています」
「それを言うなら、何故これまで長年、諸大名と争ってきたのだ」
「それは、相手が一向宗を目の敵にして滅ぼそうとしたからです。自衛のために、やむを得ず受けて立ったのです。それが証拠に、あの信長とも初めは忍従して付き合おうとされたではありませんか。法外な矢銭五千貫の要求を堺は拒んだが、父上は支払われた。本願寺が、信長に対して立ち上がったのは、信長が本願寺の土地を取り上げようとしたからです。その信長も死に、秀吉公が本願寺を丁重に扱ってくださっている今、世俗の争いを続ける理由は毛頭ありませぬ。それ故、父上は門徒に対し、いまは無益な争いを停止し、武器を捨てて数珠に持ち代えるよう、諭されているのです」
准如はあくまでも冷静だった。
「それでは、寺のために戦って死んだ門徒たちが浮かばれまい。極楽への生まれ変わりを信じ、南無阿弥陀仏の名号を一心に唱えて寺の為に死んだ者たちはどうなるのだ。年寄り、子供も区別なく、伊勢長島で信長に殺された二万人の命は、いったい何のために失われたのだ。すべて一向宗、本願寺のためではないか。最後まで争う気がないくらいなら、最初から争いなどやめればよかったのだ」
父をかばう准如にいらだちを感じ、教如は詰問口調になった。だが、准如は少しもひるまなかった。
「争いというものは、だれも望んでするものではありません。周囲の状況で仕方なく始めるのです。後から考えれば、する必要のなかった争いも、その時はやらざるを得ないという判断と理由があったのです。結局は、力に訴えなければ、争いを解決できない。それが凡夫の悲しさというものでしょう。そういわれる兄者もまた、徹底的に争うといって、門徒衆とともに大坂に残られたのに、結局は退去された。そして最後は父上に頭を下げられたのではないのですか。物事は考え通りにはいきませぬ」
弱みをつかれて、教如は返す言葉がなかった。
確かに、門徒を裏切ったという点では、自分も同じであり、父を批判する資格はない。だが、当時の状況では仕方がなかったというだけで、済まされるものか。
教如は、石山で勅使を迎えた日のことを思い出す。
天皇の調停文を頭に押し戴いた勅使は、本願寺の入り口で、講和に反対する雑賀の人々から「帰れ」と罵られ、立ち往生した。
「勅使に対する非礼である」
そういって、父は烈火のごとく怒った。だが、教如は内心、父をあざ笑っていた。
権力に屈せず、天皇の権威をも否定する雑賀の人々が、力強く見えたのと反対に、権威にひれ伏す父親は、教如にはたまらなく卑屈に見えた。勅使が帰ったあと、彼は雑賀の人々と夜遅くまで語り合い、自分たちだけは石山に残ることを決めた。
教如は、父と母を守って石山を出る准如を見送った。
あのときは、まだ自分も若かった。
「おれも、いまさら世俗の者どもと戦って滅ぶことを勧めているのではない」
教如は静かに准如にいった。
「そんなことを望んでも、もはや今の本願寺に、その力はない。悔しいが、いまは秀吉に従うことしかない。そのことは、おれも重々分かっている。しかし、おれが言いたいのは、心根の問題だ。父上には、百姓の命を召し上げたことへの苦しみが全く感じられぬ。石山落城後、北陸を歩いたおれは、至るところで門徒の恨み事を聞いた。なぜ、門主さまは私達と最後まで戦ってくれなかったのだと。父上は、彼らを見捨てたばかりか、武器を捨てなければ破門するとさえいったのだ。自分が戦に煽っておきながら、こんな身勝手なことがあろうか。おれは、何とも答えられなかった。おれたちは、戦に負けても殺されるわけではない。ちゃんと、朝廷が間に入って身の安全を保証してくれる。だが、長島や加賀の百姓は、妻子とともに、なで切りにされたのだ。百姓たちと暮らしたことのない、おまえには、こんな気持ちは分からんだろうが」