定尋の熱弁
 

「御身ら行人衆が、身を犠牲にし、寺を守っておられることを認めぬわけではありませぬ。まさにそれは法華経にいう捨身(しゃしん)供養。その献身と功績は誰もが認めている。しかし、人に害を与えれば、相手もまた我に害を与えんとする。憎しみは憎しみを呼んで膨れ上がる。いつまでたっても因果の輪の切れることはない。どこかでその悪因縁を断ち切らねば、争いは永遠に終わりませぬ。法句経にも『世の中に怨みは怨みにて息(や)むべきようなし。無怨にて息む。この法、易(か)わることなし』とあります。我が宗祖、覚鑁上人様もそれが為に自ら身を引き、高野を下りて、ここ根来へ移られたのではなかったか。我らは万物衆生の命を守るべき僧侶であって、兵(つわもの)ではありませぬ」

「そもそも何故、人は争うのか。それは人が己の利益を専らにして他人を慮(おもんばか)らぬ故です。地位と土地を奪い合う。自らの一族だけを重んじて、他の氏族を軽んじる」

「鎌倉幕府を源頼朝から引き継いだ北条氏は身分が低く、おごれば反感を買うことがわかっていた故、初めは大いに善政を行った。しかるに、その子孫が地位を独占しようとして諸国の武士の恨みを買い、滅びた」

「後醍醐帝は、鎌倉幕府を倒して御新政を始められたが、平和な時はつかの間だった。帝はやがてまた武家と覇権を争い、長い戦いを続けられた。南北両朝が和を結ぶまでの六十年間、大勢の命が失われた。かつての敵が味方となり、力を合わせて戦った兄弟は敵になった。結局はすべて意味のない死であった」

「争いが過ぎてしまえば、話し合いで解決できた些細な争いや、無意味な争いの故に多くの命が失われたことを人は悔やむ。辛抱があればすんだことを、短慮のために多くの貴重な命が失われる」

「自分が善しと思ったことが必ずしも正しいとはいえぬ。他人の目には悪(あ)しく映ることもある。立場によって善悪は変わる。偏らず公平にものを見ることができれば、話し合いによって争いは解決できる。しかし、多くの者は力に頼っておのれの正義を通そうとする。後醍醐帝も自らの理想を力で実現しようとして動乱を起こし、その結果、多くの人命が失われた。いまの秀吉もまたおのれの望みを力で押し通そうとしている」

「力に対して力で対抗しても、畢竟(ひっきょう)、強いものが勝つ。いまの秀吉の強大な力には我々はとても対抗できぬ。力で対抗できぬときは言葉に訴えるしかない。行人衆は自らの力を過信している」

「世の支配をめぐる争いは人が集まる限り絶えることはない。それは致し方ないが、問題はこの争いを解決するために武力を使うことにある。競う相手を抹殺することによって、自らが世の中を支配せんとする。力で解決すれば、知恵がなくとも強い者が勝つ。その結果、愚行が行われ、大勢の人間が不幸となり、命を落とす。支配した者もまた恨まれ、殺される。力でなく、それぞれが言葉でおのれの考えを述べ、正しい考えを持って、それを進める者が先達に選ばれなければならない。一人一人の人間が自ら考え、力でなく言葉と知恵で解決すべきである。とにもかくにも、いったん武器を置くことが必要だ」

 定尋は、必死に反駁した。だが、定尋がむきになればなるほど、行人たちの怒りも高まった。行人を落としめる気持ちは、定尋には全く無かったが、寺の運命を危惧する気持ちが、本人も知らぬうちに言葉を激しいものにした。それがまた行人を刺激した。 

             ◇

 行人たちが舌打ちする中で、学侶たちはうなずきながら定尋の意見を聞いている。もともと根来寺の学侶たちは、行人たちの常日頃の傍若無人な振る舞いを心中、快く思っていなかった。

 殺生禁断の聖地において、殺戮(さつりく)の道具である鉄砲や弓矢を振り回し、寺を世俗の争いに巻き込んで、危機にさらす。粗暴な行人たちに学侶たちは眉をひそめていた。
 最近では諸国からの浪人も流れ込み、女色にふけり、肉食をする輩も現れている。老僧たちは見て見ぬふりをしているが、若い潔癖な学侶には、耐えられぬ堕落と映った。

 しかし、現実には運海坊のいうように、寺は行人たちによって守られ、栄えたのである。
 行人がいなければ、多くの弱小寺院と同様に大名たちの侵略の餌食となり、荒廃と破却の運命をたどっていたであろう。一族安泰の加持祈祷を求めて寺に寄進する土豪たちも、本心は土地や金銭の見返りに行人の加勢を期待している。自らを守る武力があるからこそ寺は維持され、学侶も平和に仏道修行ができるのだ。
 それ故、学侶たちも行人たちの専横を面と向かって批判することには遠慮があった。それを今、定尋は敢えてしようとしている。

 定尋の意見に刺激されて、別の若い学侶が立ち上がり、行人衆の軽挙妄動を戒め、自重を求めた。
 これに対して、行人たちは再び舌打ちと怒声で答えた。

 一人の若い行人が立ち上がった。
「武器を捨てて秀吉と交渉せよというが、力を押し付けてくる者に言葉が通じようか。唯々諾々と秀吉の要求に屈するなら、奴はさらに増長して悪行を重ねよう。秀吉の力は確かに強大ではあるが、兵の多寡で勝負が決まるものでない。かの大楠公が北条幕府の大軍に立ち向かい、孤軍奮闘したことを忘れたか。仮に負けたとしても、大義はわれわれにある。子孫がそれを受け継ぎ、いつかは秀吉を打ち倒し、万民が平等な仏国土が実現されるだろう。身の安泰を考えて、力に屈すれば、いつまでたっても権力を持つ者の横暴は止まぬ」

 根来では、楠木正成を敬愛する行人は多かった。身の安危を忘れ、大敵に立ち向かった正成は行人の憧れだった。そんな彼らには、戦での死を無駄死にという定尋の言葉が自分たちへの侮辱に聞こえた。
 刀を鳴らす音が激しくなり、大伝法堂の中は険悪な雰囲気となって来ていた。

 その時、いままで黙って両者の言い分を聞いていた座主の教禅上人が静かに話しだした。
 衆徒は罵声を止めて口を閉ざし、騒然としていた堂内は、たちまち静かになった。

「定尋たちの意見は尤もであるが、それはあくまでも理想。この現実の濁世にあって、法難から寺を護るために僧が刀や鉄砲をとることはやむをえぬことだと私は思う」

 枯れ木のように痩せた体を紫衣に包み、白い髭を伸ばした座主は、いかにも徳ありげな雰囲気を漂わせている。
 その口調はあくまでも穏やかだが、説教で慣れた話ぶりには人を引き込む説得力があった。
 荒れ狂っていた行人たちも今は静かに聞いている。

「そもそも行人、僧兵なるものは慈恵大師、良源上人が叡山で初めて設けられたものであると聞く。《山家要記浅略》という書物の中で大師は、『像法(ぞうぼう=正法の後の千年)の上古にありては、世を挙げて法を尊び信を専らにするけれども、末法の世にあっては信に疎(うと)く法を蔑(さげす)むから、武門の衆徒をして田園の違乱を鎮め、正法を擁護し仏法燈油の供料を欠くことのないように護らせる』といっておられる。説法だけで仏に素直に帰依するものはよいが、いくら妙法でも聞く耳を持たぬものに心は通じぬ。経巻だけの折伏(しゃくぶく=教化)は難しいのが悲しい現実じゃ。仏に抗(あらが)う者には、力づくでも、教え諭さねばならぬ時もある。その時、菩薩は慈悲の面をかなぐりすてて憤怒の相になり、仏罰をもって戒める。現に文殊菩薩も右手に利剣、左手に経巻を持っておられる。また、不動尊が降魔の利剣と索条を手にしているのは、皆も知ってのとおりじゃ。僧が兵仗を持つことは、折伏門の一方便(ほうべん=便宜的手段)として、やむを得ないことであると私は思う」

「尤も、尤も」という声が行人の間から聞こえた。
 座主の言葉に自尊心を満たされ、怒っていた行人たちも、少し気持ちが収まったようだった。運海坊は勝ち誇ったように定尋のほうを見ている。

 定尋は物いいたげではあったが、座主の言葉に、あえて反論しようとはしなかった。
「私も座主のお考えに賛成でございます」
 座主の話を受けて、座主のそばに控えていた古参学侶の智積院昭英が口を開いた。

「我らが根本経典大日経には『不動尊が利剣を持ち、羂索(けんざく=なわ)を持つ所以(ゆえん=理由)は、如来の憤怒の命(めい)を承け、ことごとく一切衆生を殺害(せつがい)するにあり』とあります。これは、大日経疏(きょうそ=大日経の解説)にあるように『降伏せざるものは、鋭(と)き利刀をもってその業寿の無窮の命を断ち、大空に生じるを得しむ』ということ。即ち、あくまでも仏に抗(あらが)うものを、知恵の刀で切り殺し、迷いの生命を断ち切って、自由の境地に再生させてやることなのです。大平記の《山門京都に寄する事》の条にも、叡山の衆徒が護良(もりよし)親王の勅旨を受け、六波羅の兵と闘う前に、大講堂の庭で詮議したとあり、その際、『我が山は、開基の始めより、専ら仏教修学の地であったが、慈恵僧正が座主となって以来、忍辱の衣の上に、すなわち魔障降伏の秋霜(=刀剣)を帯び、逆暴、国を乱せば、即ち神力を借りてこれを退く』と僧たちが述べたことが書かれております。このことからも行人が刀を手にとるのは、寺を守るためであり、やむをえないものと考えていたことが分かります」

 昭英は、とうとうと述べ続ける。様々な文献を引用するのは、彼ら学侶の最も得意とするところであった。

 座主や昭英の話を聞いて、杉の坊明算は内心、苦笑していた。
 「山家要記浅略」はかつて定尋にその存在を教えて貰い、寺の書庫で自分も読んだことがある。

 そこには『修学に堪えない愚鈍無才の僧侶を選んで武門の衆徒とする』という言葉があり、それを読んで一人憤慨したものだ。
 定尋は、この本は良源慈恵大師の名を借りて、後の時代に作られたものであり、慈恵自身は僧が兵仗を持つことに反対していたのだ、といっていた。
 たとえ、そうだとしても、この本を書いた人間は、行人を体を張るしか能のない、愚鈍な輩(やから)としか思っていないのだ。
 座主や昭英もこのことを知りながら黙っている。恐らく彼らも心の中では同じように考え、行人を軽蔑しているのだろう。

 若く純粋な定尋は、殺生を真正面から否定して行人を怒らせたが、座主や昭英は年をとっているだけに世慣れている。
 心の中で蔑んでいることは、少しも顔に出さず、表向きは行人を持ちあげて、寺のために戦わせようとしている。自らは手を汚さずに、行人に汚れ仕事をさせようとしているのだ。
 明算には、とりすました顔で座っている座主が、老獪(ろうかい)な古狐のように見えた。

                ◇

 座主の言葉で、詮議の行方は決まった。若い行人たちが次々に立って、勇ましく主戦論を唱えた。もはや、あえて家康との同盟に反対するものはいなかった。

 詮議の結論が開戦に向いたことに、明算は苦い思いをかみしめていた。
 僧が戦をすることの善悪や殺生戒の解釈などの論議に埋没し、いまの状況や彼我の戦力について十分な吟味が為されなかったことが気掛かりだった。
 いまさら、行人が戦うことの善し悪しを論じても仕方がない。
 行人は、現実に戦う者として、ここにいるのである。問題は戦の仕方であり、勝てるかどうかの展望である。家康が本当に頼れる人物か、あるいは家康と組んで本当に勝利の展望があるのか。これらの吟味が大切なのだ。全滅してしまっては戦う意味はない。何らかの解決策が得られるように交渉すべきだが、それが難しい状況になってしまった。

 明算は、定尋の発言が逆効果となり、寺が一気に家康と手を組む方向に動いてしまったのを知って、積極的に発言しなかったことを悔いた。
 定尋が言い出す前に、早く自分の考えをいうべきだった。すでに寺全体の雰囲気からは、秀吉との戦は避けられない情勢となっている。ここまで事態が進んでしまえば、もはや押しとどめることは出来ない。いまさら現実的な検討を唱えても手遅れである。しかし、もはや戦は避けられないにしても、戦局の展望と現状の分析だけは確実にしなければならない。
 明算は自らに言い聞かせた。

「議論もだいぶ煮詰まって来たように見受けられる故に、このあたりで結論を出したいと存ずる。家康殿の誘いに応じることにご異議ござるか、ござらぬか」
 意見が出尽くしたのを見て、閼伽井坊はいった。
「尤も尤も。その儀異議なし」
 閼伽井坊の言葉に同意の声が上がった。

 その場で賛否が問われた。家康に同心すべきとする者が挙手した。数えるまでもなく、手を上げたものが圧倒的に多かった。

「大方は同心に異議なし、と承った」
 閼伽井坊は、声をはり上げた。
「直ちに承諾の返書を遣わすこととする」
 閼伽井坊の言葉に、多くの者が喜びの声を上げた。

 家康への同心が決まったことが伝わると、堂の内外が興奮に包まれた。
 行人たちは、一斉に立ち上がった。両手を打ち合わせ喜ぶ者、刀を鳴らし歓声をあげる者がいる。声高に話しながら立ち去って行く者、それぞれの僧坊で留守居をしている僧に知らせるため、走っていく者もある。
 堂内が騒然とする中で、明算は唇を噛んで堂を出た。定尋に同調して慎重論を説かなかったことへの後悔が胸のなかでくすぶっていた。

 明算は、出口のところで堂の中を振り返った。祭壇の前、金色に光る大日如来の膝元で、定尋が放心したように座っているのが見えた。

                ◇

 数日後、明算は、配下の者数人を引き連れて、再び日前宮へ赴いた。
 前と同じように紀州各地から集まった人々が、大広間に顔をそろえていた。
 人々は、それぞれ扇子をせわしげに動かしている。それは暑さのせいだけではなく、心の乱れの表れのように見える。

「度々のご足労、まことにもって恐縮至極にございます。早速ではございますが、皆様方のご結論をお聞かせ下さいませ」
 大広間に出てきた紀忠雄は、すぐに話し合いの結果を聞きたがった。

 紀忠雄に促され、紀州各地の指導者達は立ち上がり、次々に自分たちの結論を報告していく。
 あるものは家康との同心に賛成、あるものは反対だった。
 賛成、反対、それぞれに理由はあった。それは根来寺での大衆詮議で出た理由とおおむね変わらなかった。

 賛成するものにも、反対するものにも、共通しているのは秀吉への恐れだった。
 長い戦乱を生き抜いてきた紀州の土豪や寺社は、誰に力があり、誰につけば生き残れるか、本能的にかぎわける力を持っている。秀吉の力が強力なのは、あまりにはっきりしている。

 だが、劣勢はわかっていても秀吉と絶対に妥協できない理由が彼らにはあった。それは、秀吉が、今までの戦国大名とは違い、農民の自由を認めないことを知っていたからだ。
 古い秩序が崩壊した中世社会では、彼らは権力の真空状態にあって、自由を享受することが出来た。
 しかし、秀吉によって、天下が統一されてしまえば、もはやその自由は無い。彼らにとって自由を失うことは耐え難い苦痛だった。自由を失っても生き延びるべきか、それとも自由のために戦うか。だれもが悩み、躊躇していた。

 紀忠雄のそばに座った井上主計頭は、さきほどから硬い表情で報告を聞いている。指導者たちの報告は家康に同心する回答と、拒否する回答が相半ばした。
 重苦しい空気の中で、やがて順番が明算に回ってきた。
 注目の中で明算は立ち上がり、おもむろに口を開いた。

「根来は家康殿の申し出を受けることに決した」
 明算の報告に座がざわめいた。それだけ根来の決定は彼らにとって重みがあった。

 井上主計頭は安堵した表情で明算の方を見た。主戦派の紀忠雄は満足そうにうなずいている。
 複雑な思いで明算は同心に至った理由と論議の経過を述べ、席に着いた。

 明算に続いて雑賀の土橋平之丞が立った。人々は再び静まり、平之丞が口を開くのを待った。
「我々もまた、家康殿に同心する」
 平之丞の口から出たのは、根来と同じ結論だった。
 平之丞の顔は歪んでいる。それは、家康との同心が雑賀にとっても危険な賭けであり、苦渋の決断だったことを示していた。

 それまで均衡していた賛成と反対の意見が大きく動いた。紀州の二つの大きな勢力である根来と雑賀が家康との同盟を受け入れたことで、同心賛成派の力が圧倒的に強くなった。
 根来と雑賀に引っ張られる形で、そのあとに立ったものの多くは賛成に回った。最初、反対あるいは慎重派だった者の中にも前言を撤回し、賛成派に回る者が出た。

「これまでのところ、徳川殿への同心に賛成の方の方が多いようにお見受けするが、いかがであろう。この辺で決を取っては」
 報告が一巡したのを見て、紀忠雄がいった。

 評議の作法通り、ひとりずつ立ち上がり、賛否を書き込んだ紙を、座敷の床の間にしつらえた神棚に置いていく。全員が出しおわると、坐女がひとつずつ開いては読み上げ、壁にはった紙に筆で印を付けていった。

 結果は、四十一人の参加者のうち、三十人までが家康との同心に賛成だった。
 畳に頭をすりつけるようにして、井上主計頭が礼を述べた。

 全員に小刀と書状が回された。紀州諸勢力の同盟では、半数以上が意見を決めたときは、それに従わねばならぬ取り決めがある。
 反対、中立に回ったものも行動を共にせねばならない。その場合、血判連署で確認するのがしきたりだった。

 一人一人、小刀で左手の親指に傷をつけ、署名の上に血判を押した。どの顔もこころなしか、青ざめているようだ。
 親指に傷をつけるとき、明算は少し顔を歪めた。自らの意志に反したことをした心の痛みでもあった。

 会合は終わった。外に出ると、日差しは相変わらず強く、地平線の向こうに沸き上がった大きな入道雲が白く光っていた。入道雲は、その下にある小さな綿雲を従えて、あたりを見下ろすように天に延びている。間もなく夕立がやってくるのだろう。
 明算は、回り始めた運命の車が、急に速度をあげてきたのを感じた。家康の笑う顔が目に浮かんだ。

                ◇

 家康への使者には紀州名草郡鳴神村の惣光寺住職、永意法印が選ばれた。
 永意法印は一座の中で最も若く、以前も関東の北条に隠密の使いをしたことがあった。
 郡山に秀吉の実弟秀長が封ぜられている大和を避け、伊勢を通って、従者と二人だけで尾張に向かうことが決められた。
 万一の事を考えて、四十一人の連名の血書は、袈裟の襟に縫い込まれた。

 慎重に諸国の情勢を確かめたあと、暦売りに身をやつした永意法印が、一カ月後、ひそかに浜松の家康のもとへ出発した。すでに根来の山から蝉の声は消えて木々は色付き、風には肌寒さが感じられた。

 その時がいつになるかはまだ分からなかったが、家康に味方することが決まった以上、遠からず戦になることは間違いなかった。
 根来寺では、戦に備えて鉄砲、弾薬の蓄えが増やされ、鉄砲や槍、弓矢の稽古も今まで以上に激しくなった。

 若左近の鉄砲も上達していた。十発撃てば、八、九発は当てることができるようになった。三千人いる鉄砲組の「能者(てだれ)」の中でも、目を引く腕前になった。
 道誉は若左近の技術が上達したことを喜び、自分が考えた様々な工夫を教えてくれた。

 若左近は自分が根来寺を護っているという気になった。自らが頼られていると思うと、体に力がこもるのを感じた。

 田舎で田を耕していた時には感じなかった力を、自分の内に感じた。自分もまた世の中を動かしている気がした。

 土にまみれ、鍬を振るっていたときも、作物を育てる喜びはあった。だが、一方で何か満たされぬ気持ちが心の中で、くすぶっていた。
 若左近は、自分が得たものが何であるか、いまでは知っている。それは、己の力に対する自信と「仏の前では人間はみな等しい」という自覚だった。

 熊取庄では、食うものに事欠くこともあった。和泉が飢饉に見舞われた数年前には、山の蕨(ワラビ)が唯一の食物となった。蕨は、村ごとに厳しく管理され、誰であっても勝手に採ることは許されなかった。
 あるとき、持ち主のわからない蕨が川の水に着けてさらされているのが見付かった。村人が物陰に隠れて見張っていると、一人の子供が取りに来た。
 村人は子供を取り押さえた。十歳になる子供は空腹のあまり、村の掟を破って、こっそり摘み取ったことを自白した。
 子供は、母親の必死の命乞いにもかかわらず、村人たちに川の水の中に押し付けられて殺された。

 掟を破った以上、殺されても文句はいえなかった。だが、若左近はあのときの命乞いをする子供と両親の声をいまも忘れない。

 戦で田や畑が荒らされたときのことも忘れられない。戦の相手方に損害を与えるため、足軽たちは「青田刈り」と称して、せっかく穂をつけた稲を刈り取って焼いた。あるいは、植えたばかりの田を馬のひづめで踏みにじられる仕打ちを受けたこともあった。
 百姓ほど情けないものはない、とつくづく思った。だが、もう侍たちに勝手なことはさせない。

 おれたちは誰にも命令はされぬ。自分達のことは自分達で決める。
 若左近は、自信が体中にみなぎるのを感じる。